陪宋中丞武昌夜飲懐古 李 白
            宋中丞に陪して武昌に夜飲し懐古す
清景南楼夜    清景せいけい 南楼なんろうの夜
風流在武昌    風流  武昌ぶしょうに在り
庾公愛秋月    庾公ゆこう 秋月しゅうげつを愛し
乗興坐胡床    興きょうに乗じて胡床こしょうに坐す
龍笛吟寒水    龍笛りゅうてき 寒水かんすいに吟じ
天河落暁霜    天河てんが 暁霜ぎょうそうを落とす
我心還不淺    我わが心 還た浅からず
懐古酔余觴    懐古かいこして余觴よしょうに酔う
南楼の夜景は清らかで
武昌こそ 風流の地
晋の庾亮は秋月を好み
興に乗じて椅子に坐し 語り明かした
笛の音が 寒々とした流れに響き
天の川から朝の霜が降りてくる
それでも私の興趣は冷めやらず
いにしえを想って 残り酒に酔いつづける

 李白は獄舎にあって、手がかりのある知人につぎつぎと詩を贈って必死の嘆願をつづけました。豫章の宗家と妻の宗氏も、かつての名門としての人脈を頼りに救出に努力したようです。
 なかでも頼りにしたのは、そのころ尋陽にやってきた黄門侍郎(正四品上)同平章事江淮宣慰補使の崔渙さいかんであったようです。
 黄門侍郎は門下省の次官ですが、同平章事どうべんしょうじを兼務していますので宰相のひとりです。
 同じころ御使中丞(正五品上)の宋若思そうじゃくしが置頓使に任ぜられ、江南の兵三千を率いて長江を遡上していました。
 その途中、尋陽を通りかかって、李白が尋陽の獄につながれていることを知ったのです。宋若思の父親の宋之悌そうしていはかつて李白と交流があり、李白に好意を抱いていました。
 そこで宋若思は崔渙と相談して李白を獄から出し、幕賓として自軍の配下に加えました。秋七月以前のこととみられます。
 もとよりこの措置は中央政府の承認を得たものではありませんので、宋若思は長江を西へ移動しながら政府の了解を求めます。
 李白を幕下に加えたいという請願を行うわけですが、その推薦文は李白みずから書いています。つまり自分の推薦状を宋若思の名前で出すわけですが、それを推薦される本人が代筆するわけです。
 李白の文集に「宋若思の為、自ら薦める表」として、その文は残されていますが、永王の乱に参加した罪はまったく認めておらず、かなり独善的なものです。さらに「宋若思の為、金陵を都に請う表」という文も残されています。これは都を金陵に移したほうがいいという提案を宋中丞の名で中央政府に行ったものです。そのころ粛宗は鳳翔(陝西省宝鶏市鳳翔県)を行在所に定めて長安の奪回をすすめている最中でしたので、この提言は粛宗を激怒させました。
 李白は宋若思の幕僚としての仕事をしながら、宋中丞の軍に従って鄂州(湖北省武漢市武昌区)までやってきました。
 詩は武昌で作られたもので、宋若思を東晋の庾亮ゆりょうに比しています。庾亮が征西将軍として武昌に鎮したとき、鄂州城の南楼で属僚たちと雑談して過ごしたという伝えがあります。
 李白は夜明けまで酒を飲んで風流に酔い、庾亮の分け隔てのない態度を称賛することによって宋若思を褒めているのです。

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