正月 永王は東に兵を出し
天子は遥かに 龍虎の旗を授ける
楼船がひとたび動けば 風波は静まり
長江も漢水も 雁や家鴨の池となるだろう
李白は戦乱を恐れて、かなり右往左往します。
剡中まで難を避けたけれども、政府軍が河東や河北で攻勢に転じているのを聞くと、いくらか安心したのか金陵にもどってきます。
ところが六月八日に潼関を守っていた哥舒翰かじょかんの兵が破れ、六月十三日に玄宗以下の朝廷が長安を捨てて西に走ったと聞くと、李白は金陵から長江を遡って尋陽に行き、廬山の屏風畳に隠れ住みます。屏風畳にはかねて知り合いの女道士李騰空りとうくうがいましたので、妻を連れて頼ったのでしょう。李白が隠れていたあいだに、玄宗は楊貴妃一族を殺せという護衛兵の要求を拒否できず、楊貴妃以下が殺されるのを見捨てて蜀の成都を目指します。
皇太子の李享は玄宗とわかれて北の霊武(寧夏回族自治区霊武県)に移り、七月に即位(粛宗)して年号を至徳と改めます。
この即位は玄宗の譲位を受けたものではありませんでしたので、事後に承認を求めます。一方、玄宗は成都へ向かう途中、漢中(陝西省南鄭県)で軍議をひらき、七月十五日に勅命を発して永王李璘りりんらに各地の冶定と賊軍への反攻を指示します。
この時点では粛宗の即位は玄宗のもとに届いていなかったので、玄宗は皇帝として命令を出したのです。
江南地方の冶定を命ぜられた永王李璘は、荊州の江陵に使府を置いて募兵と兵船の準備をはじめます。永王の戦争準備はやがて粛宗の知るところとなり、粛宗はこれを禁じて成都の玄宗のもとにもどるように命じますが、永王はこれを無視して、十二月十五日には兵船をととのえて長江を東へ進軍しはじめます。
永王は有名な詩人の李白が廬山にいることを知り、再三にわたって使者を送り、李白を自軍の幕僚に迎えようとします。
李白は永王が玄宗の命令によって江南地方を平定するのだと信じていましたので、正月前後には廬山を出て、永王の東征軍に加わります。李白は国に尽くして名を挙げる時がいよいよやって来たと、勇躍して軍に参加したと思われます。
洛陽の北賊は 天下を麻のように乱し
人々は南に難を避け 永嘉の乱に似ている
東山の謝安石 このような人物を用いるならば
君王のために 笑って北の砂塵を静めるであろう
李白は永王の軍に尋陽から参加するのですが、詩の其の一は永王の江陵出兵からはじまっています。
このことから、連作が意図的に構成されていることが分かります。
詩中の「永嘉」は晋の永嘉五年(三一一)に洛陽が前趙の劉曜に攻められて陥落したときに、多くの知識人が江南に逃れた事件をさします。また「謝安石」しゃあんせきは前秦の符堅ふけんが大軍で南下して東晋を攻めたとき、東山に隠居していた謝安(あざなは安石)がそれを淝水ひすいに迎えて撃退した大勝利のことです。
李白は自分を謝安に比して、永王のために談笑のうちに北賊を撃退してみせましょうと華やかなことを言っています。
進軍の太鼓は 武昌の空に鳴りわたり
旗は雲のように翻って 尋陽を過ぎる
些かの不法もないので 三呉の民は悦び
春の日に遥かに望む 五色の光
永王の船団は江陵から武昌(湖北省武漢市)をへて尋陽に至ったのであり、その進軍の盛んなことを褒めています。
永王の兵の統制がとれているので、呉の民は征旅のうえに「五色光」を仰ぎ見ていると詠います。「五色の光」とは祥瑞の雲気であり、めでたいことのはじまる兆しです。しかし、永王が鄱陽郡はようぐん、つまり尋陽まできたときには、呉郡(江蘇省蘇州市)の太守李希言りきげんが、永王の東下を平牒へいちょうで咎めてきました。平牒とは普通の文書のことで、玄宗の勅命を受けた永王の立場を認めない詰問の書です。
呉郡太守の無礼に激怒した永王は、部将に命じて呉郡と揚州の攻撃を命じます。戦闘はすでに開始されていたのです。
龍虎がうずくまる帝王の地
皇子が金陵の古跡を訪ねる
昭陽殿では 春風に吹かれて暖かく
明月の夜は 鳷鵲楼を散策なさる
戦闘はすでに始まっていますが、李白の東巡歌はのんびりしたものです。尋陽から金陵に船を進めた永王は「金陵に古丘を訪う」と古都建康の古跡を訪ねます。李白はもちろん供をして詩を作ります。
詩中の「昭陽殿」も「鳷鵲楼」も南朝の都にあった宮殿で、これらの宮殿は名前を引き継いで長安にもあります。
李白は金陵の古跡を歩く永王を都城にいるかのように描いており、永王こそ将来の皇帝であるかのように詠っています。
帝王はお二人とも まだ都に帰っておられず
五陵の事を思うと 私は悲しみにたえない
将軍たちは 河南の地を救うことができず
ひとびとは 賢王の遠征を待ち望んでいる
至徳二載(七五七)正月のこの時点では、玄宗も粛宗も都に帰還できていない状態です。
詩中の「五陵の松柏」は唐の五代の帝王の陵墓のことで、李白は皇帝の墓が賊の手中にあることを思うと悲しみにたえないと嘆きます。
洛陽の民は賢王の遠征を望んでいると詠い、永王が江南のみならず洛陽にも攻めのぼって、河南の賊軍を追い払うことを期待しているのです。
丹陽の北固山こそ 呉の関門
山上の楼台は 絵のように雲水に浮かぶ
峰々の烽火は 山をつらねて海までつづき
両岸の軍旗は 緑の山をめぐってはためく
永王の船団は金陵から丹陽たんように進んでいます。
丹陽(江蘇省鎮江市)は潤州の郡名で、当時は長江の河口に位置する重要な渡津でした。現在の揚子江の河口は堆積による陸地化によって東に二五〇㌔㍍ほど移動しています。
また、江南の呉地へ延びる大運河の入り口でもありましたので、李白は「丹陽の北固は 是れ呉関」と言っているのです。
「北固」は潤州にあった山の名です。永王軍は呉郡と揚州の兵を退けて、江南の喉首ともいえる潤州を占領しました。
詩はその意気揚々とした姿を詠っています。
永王は三江から五湖の地までを平定し
楼船は 海を渡ろうとして揚州に泊す
戦艦は 意気盛んな戦士を満載し
どの帆船にも 駿馬が乗っている
其の七の詩では、永王の軍が五湖の地を平定し、「海に跨って揚都に次す」と言っていますが、実際に占領しているのは潤州の対岸の揚子津ようすしんまでで、揚州に入城してはいません。重要なのは永王の船団が海上を北航して賊の背後を衝く策戦を立てていたらしいことです。
そのために戦艦や帆船に兵馬を満載していると詠っています。
この策戦は、多分、李白の献策であろうと言われています。
試みに 君王の玉馬の鞭を拝借し
賊徒を退治して 祝宴に坐したい
南の風が胡兵を一掃し 静かになれば
西のかた長安に入って 天子に仕えよう
其の十一の詩は「永王東巡歌」の最後の作になります。
この詩では胡兵こへいを一掃した暁には長安へ行って天子に仕えたいと、李白は生涯変わることのなかった官途への希望を述べています。
しかしそのころ、粛宗の命を受けた永王征討軍は安陸に集結しはじめていましたし、皇帝の特命を帯びた宦官の啖廷瑤たんていようが揚州に来て、永王軍の招諭を策していました。
揚州の淮南採訪使や河北招訪使の軍は揚子津ようすしんに兵を進め、瓜歩洲かほすで気勢を挙げました。永王麾下の有力部将は、招諭に応じて粛宗への帰順を誓い、夜のあいだに逃亡してしまいました。
永王は残兵を率いて船で晋陵(江蘇省常州市)に退きますが、揚州軍の追撃を受けて晋陵で壊滅してしまいます。