北上行       北上行    李白
北上何所苦    北上ほくじょう 何の苦しむ所ぞ
北上縁太行    北上は太行たいこうに縁
磴道盤且峻    磴道とうどうまがり且つ峻けわしく
巉岩凌穹蒼    巉岩ざんがん 穹蒼きゅうそうを凌しの
馬足蹶側石    馬足ばそくは側石そくせきに蹶つまず
車輪摧高崗    車輪は高き崗おかに摧くだかる
沙塵接幽州    沙塵さじんは幽州ゆうしゅうに接し
烽火連朔方    烽火ほうかは朔方さくほうに連つらなる
殺気毒剣戟    殺気さっきは剣戟けんげきよりも毒どくなり
厳風裂衣裳    厳風げんぷうは衣裳いしょうを裂
何が人を苦しめるのか 北への避難だ
北上するには 太行山に沿って行かねばならない
急な坂道は 曲がりくねって険しく
尖った岩山が 天空にそそり立つ
馬は 突き出た石に足をとられ
車輪は 岡を越えようとして砕け散る
砂塵は 幽州から巻き起こり
烽火は 西のかた朔方に連なる
殺気は 剣戟よりも人を傷つけ
北風は 衣装を引き裂いて吹く

 安禄山軍は十二月三日に黄河を渡り、西に進んで十二月十三日には洛陽になだれ込みます。
 叛乱軍主力が西に向かったのは、李白にとって幸いでした。李白は年末には妻の宗氏と義弟の家族をつれて、南へ向かうことができました。
 「北上行」ほくじょうこうは黄河周辺の住民が戦禍を避けて北の太行山中に逃げ込むようすを想像で詠った詩です。
 李白の体験ではありません。李白は天宝十二載の春に河北の魏郡から太行山を西に横断して山西の西河郡(山西省汾陽県)に行っていますので、太行山の険しい山路は経験しています。
 それだけに冬の太行山中の苦難を思って、人々の苦しみを痛切に想像して書いたのでしょう。
 詩中に「烽火は朔方に連なる」とありますが、安禄山は西に洛陽を攻めると同時に大同(山西省大同市)の高秀岩軍に命じて朔方郡(夏州以北のオルドス地方)を攻めさせています。
 黄河周辺の住民の北への避難は宋州で聞いたと思いますが、はるか北の軍事情報を李白がどうして手に入れたのか不思議です。

奔鯨夾黄河    奔鯨ほんげい 黄河を夾はさ
鑿歯屯洛陽    鑿歯さくし 洛陽に屯たむろ
前行無帰日    前すすみ行きて 帰る日無ければ
返顧思旧郷    返顧へんこして 旧郷きゅうきょうを思う
惨戚冰雪裏    惨戚さんせきたり 冰雪ひょうせつの裏うち
悲号絶中腸    悲しみ号さけびて中腸ちゅうちょうを絶
尺布不掩体    尺布せきふは体を掩おおわず
皮膚劇枯桑    皮膚は枯れし桑よりも劇はげ
荒れ狂う鯨は 黄河を越え
悪獣の牙は 洛陽に居座っている
逃げるだけで いつになったら帰れるのか
振りかえって 故郷を思う
雪や氷の中で 苦しみ悶え
胸も張り裂けんばかりに泣き叫ぶ
僅かな布では 体を覆えず
肌は荒れて 枯れた桑よりもひどい

 詩中に「鑿歯 洛陽に屯す」とありますので、この詩が十二月十三日以降に作られたことがわかります。
 李白は逃げまどう民の身になって「返顧して 旧郷を思う」と言っていますが、みずからも妻宗氏の故郷宋州を離れて江南へ逃れているのですから、妻の気持ちをおもんばかって詠っているともいえます。

汲水澗谷阻    水を汲むには 澗谷かんこくに阻へだてられ
采薪隴坂長    薪を采るには 隴坂ろうはん長し
猛虎又掉尾    猛虎は 又 尾を掉ふる
磨牙皓秋霜    牙を磨きて 秋霜しゅうそうよりも皓しろ
草木不可餐    草木そうもくくらう可からざれば
飢飲零露漿    飢えて零こぼれし露の漿しるを飲む
嘆此北上苦    此の北上ほくじょうの苦しみを嘆き
停驂為之傷    驂さんを停とどめて 之が為に傷いた
何日王道平    何いずれの日か 王道平らかにして
開顔覩天光    開顔かいがん 天光を覩
水を汲むのに 谷川は深く
薪を採るにも 山坂は長い
猛虎は襲いかかろうと 尾を振り立て
牙は磨かれて 霜よりも白い
草木も尽きて 食べることができず
飢えては こぼれる露のしずくを啜る
北上のこの苦しみを 嘆き悲しみ
馬車をとめて 一篇の詩をつくる
いつになったら平和が回復し
晴々として 天の光を仰げるのだろうか

 李白は戦禍に追い立てられ飢えに迫られる無辜の民の苦しみを描き、平和の到来を願っています。しかし、安禄山の乱がなぜ起きたかについては、ひとことも触れていません。
 節度使の権力の巨大化や頽廃した王朝に対する批判はないのです。
 ただ、「驂を停めて 之が為に傷む」と言っているだけです。
 「驂」は馬車の副え馬のことですから、この詩は宋州から江南への逃避行の途中で作られたものと思われます。


見京兆韋参軍量移東陽 李 白
         京兆の韋参軍の東陽に量移せられしを見る
潮水還帰海    潮水ちょうすいめぐりて海に帰り
流人却到呉    流人りゅうじんかえって呉に到る
相逢問愁苦    相逢あいあうて愁苦しゅうくを問えば
涙尽日南珠    涙は尽ことごとく 日南にちなんの珠たま
満ち潮は やがて海へ帰って来るのに
流人はどうにか 呉までもどってきた
たまたま逢って 配所の苦労を尋ねると
流す涙は すべて南海の真珠と化す

 天宝十五載(七五六)の春は、李白は妻の宗氏を連れて江南の当塗に滞在していました。ところが、その正月、安禄山が洛陽で即位し皇帝を称したことを聞き、当塗から宣城にもどります。
 李白は戦乱に巻き込まれることを恐れ、越州(浙江省紹興市)の南の剡中せんちゅうに難を避けようと考えます。
 三月に李白は宣城の崔県令に留別の詩を送り、陸路を山越えして東に向かい、溧陽(江蘇省溧陽県)に出て、さらに湖水や水路を伝って南下し、夏には越州に達しています。越州では剡中の南の東陽(浙江省東陽県)まで足を延ばしたらしい。というのは東陽で京兆けいちょう出身の韋参軍いさんぐんに会っているからです。韋参軍の経歴は不明ですが、「量移」りょういとあるので、東陽よりも南の地に左遷されていたのが、いくらか都に近いところに移されたことを意味します。
 「涙は尽く 日南の珠」とありますので、左遷の先は日南(ハノイの南)か嶺南の地であったのでしょう。

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