青天有月来幾時 青天せいてん 月有りて来のかた 幾時いくときぞ
把酒問月 酒を把って月に問う 李 白
夜空に月が出はじめて どれだけの歳月が流れたのか
杯の手を休め ちょっとそのことを尋ねてみたい
人は明月に近づこうとするが できない相談だ
月のほうから 人の歩みについてくる
昇ったばかりの白い月 天上の門に臨む鏡のよう
夕靄が消えてしまうと 月は清らかな光を放つ
人はただ 日暮れの月が海上に昇るのを愛でるだけ
雲間に沈む 夜明けの月には関心がない
李白の友人の崔成甫さいせいほは宣州の宇文うぶん太守と知友でした。
九月九日の重陽節に崔成甫が金陵から宇文太守を訪ねてきますが、そのとき李白は響山きょうざんに出かけていて留守でした。李白はその後、宇文太守とも近づきになり、宣城での交際も広がります。
ある宴席で李白は月について問われ、一首を書き上げました。
「把酒問月」のはじめの八句は導入の二句と人と月の関係を述べる六句によって成り立っていますが、全体としてこれまでの李白のように月に陶酔するという感じがなくなり、長安で作った「月下独酌」の発想を客観的に述べているのが目立ちます。
月の兎は仙薬をついて 秋から春と休むことなく
姮娥はひとり月に棲み いったい誰と親しむのか
今の世の人は 昔の月を見ることはないが
今の世の月は 昔の人を照らしていた
昔の人も今の人も 同じ疑問を抱きながら
流れる水のように 生きてはやがて去ってゆく
私の願いは唯一つ 歌を詠い酒を飲むべき人生に
月の光が 酒樽の中を照らしつづけてくれること
後半八句では、月の兎と月の女神姮娥の伝説について疑問を呈し、月と人、永遠と現在について冷静な態度で観察を試みています。
人が月に降り立った現在では、子供も思いつかない疑問ですが、これは唐代の詩です。李白の観察には一種の無常感が漂っていて、李白らしい華やかさがありません。歌を詠い酒を飲むべき時(この「時」は人生という意味でしょう)に、月光が「長えに金樽の裏を照らさんことを」と、最後になってやっと李白らしい詩句で結びます。この詩は李白の心境の変化を示すような作品であるという気がします。