秋登宣城謝朓北楼 秋 宣城の謝朓の北楼に登る 李 白


 江城如画裏     江城こうじょう 画裏がりの如く
 山晩望晴空     山晩れて晴空せいくうに望む
 両水夾明鏡     両水りょうすい 明鏡を夾さしはさ
 双橋落彩虹     双橋そうきょう 彩虹さいこうを落せり
 人煙寒橘柚     人煙じんえん 橘柚きつゆうに寒く
 秋色老梧桐     秋色しゅうしょく 梧桐ごとうに老ゆ
 誰念北楼上     誰か念おもわん 北楼ほくろうの上
 臨風懐謝公     風に臨んで謝公しゃこうを懐おもわんとは
川辺の街は 絵のように美しく
日暮れの山 晴れわたる空の眺め
二筋の川は 鏡のように澄み
二つの橋は 虹の絵姿を水面に映す
炊煙は寒々と 蜜柑の木になびき
梧桐の葉は 秋の気配に枯れしぼむ
北楼に立って 吹く風に向かい合い
謝朓のことが ただひたすらに偲ばれる

 冬十月に范陽はんように着いて安禄山の軍を見た李白は、そのあまりにも乱暴な跋扈ぶりに驚いて、すぐに范陽を去りました。
 翌天宝十二載(七三五)の早春、李白は魏郡(河北省魏県の東一帯)から西へ太行山を越えて西河郡(山西省汾陽県)に行きます。
 そこから南下して潼関に至り、西岳華山に詣でます。
 潼関から東南に旅をして長江に至り、歴陽(安徽省和県)から長江を渡るのですが、これは大変な旅行です。季節はすでに秋になっていました。歴陽(れきよう)は郡名で和州のことですので、対岸は当塗(とうと)です。
 李白は当塗からさらに内陸部にはいって宣城(安徽省宣城県)に行き、ひとまず城内に居を定めます。宣城せんじょうは南朝斉の時代に謝朓しゃちょうが太守(郡の長官)を勤めた城市です。李白はさっそく謝朓が建てたという北楼に登って詩を書きました。
 「江城」というのは宣城のことで、宛渓と勾渓の二つの流れが宣城をはさんで北に流れ、やがて合流して長江に注ぎます。
 宛渓には二つの美しい橋がかかり、川に映る姿は絵のように美しい。
 北楼は城内の陵陽山上にあり、謝朓はこの楼で詩作をしたという伝えも残っています。李白は宣城がすっかり気に入り、しばらく滞在することにしました。


独坐敬亭山     独り敬亭山に坐す  李 白
衆鳥高飛尽    衆鳥しゅうちょう 高く飛んで尽
孤雲独去閒    孤雲こうん 独り去って閑かんなり
相看両不厭    相あい看て両ふたつながら厭かざるは
只有敬亭山    只だ敬亭山けいていざん有るのみ
鳥たちは 高く飛び去って消え
浮き雲は いつか流れて閑しずかである
いつまでも みつめていて飽きないのは
敬亭山よ もはやお前があるだけだ

 この詩は李白の有名な五言絶句ですので、大抵の人はご存じと思います。敬亭山は宣城の北五㌔㍍ほどのところにあって、高さ三〇〇㍍ほどの小山だそうです。謝朓も宣城の太守だったころ、しばしば訪れたことのある景勝地でした。この詩は普通、李白が敬亭山の麓に住んでいて、山を厭かず眺めていたと解されていますが、ときどき訪ねていって一日中眺めていたとするほうがいいようです。宣城では李白は隠棲の気持ちを詩に詠ってはいますが、隠棲はしていません。
 城内で多くの宴会に呼ばれ、詩を作っています。詩の起承の二句は、李白が坐しているあたりのようすを描いて簡潔かつ秀逸です。
 李白の心、閑雅な心の在りようまでが目に浮かぶように描かれています。ところで李白が見ている敬亭山は自然の単なる景勝地ではなく、六朝以来、累積した美意識、詩の文化の優れた部分が蓄積された山です。李白は「相看て両つながら厭かざるは」といっていますが、「両つ」とは何でしょう。山とそれを見ている自分でしょうか。
 この解釈は通説ですが、この「両つ」は結びの句から山にかかわるものを言っていると考えられます。自然の美と敬亭山に込められた詩、詩文化の蓄積への思いと言ってもいいでしょう。
 一歩さがって山の自然美と謝朓の詩と言ってもいいと思います。

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