望廬山瀑布 二首 其一 廬山の瀑布を望む 二首 其の一 李 白


 西登香炉峰    西のかた香炉峰こうろほうに登り
 南見瀑布水    南のかた瀑布ばくふの水を見る
 掛流三百丈    流れを掛くること三百丈
 噴壑数十里    壑たにに噴くこと数十里
 歘如飛電来    歘くつとして飛電ひでんの来きたるが如く
 隠若白虹起    隠いんとして白虹はくこうの起つが若ごと
 初驚河漢落    初めは驚く 河漢かかんの落ちて
 半灑雲天裏    半なかば雲天うんてんの裏うちより灑そそぐかと
西のかた 香炉峰に登ると
南に瀧の落ちるのが見える
岸壁にかかる高さは三百丈
谷間のしぶきは数十里にわたる
稲妻のように落ちるかと思えば
朦朧として白い虹が立つようだ
はじめは 銀河が落ちるかと驚き
もしくは 雲海から注ぐかと息をのむ

 李白は白絹に書いた詩を東魯の二子に送りましたが、帰ることはせず、翌天宝九載(七五〇)の春を金陵で過ごしたあと、夏五月には廬山に出かけています。
 廬山には香炉峰と呼ばれる峰が南北に二つあって、現在では北峰を香炉峰と言っているようですが、瀧があるのは南峰だそうです。
 李白は峰よりも瀧に注目しており、前八句では瀧の雄大さを全体として捉えて描いています。はじめは「河漢」(銀河)が落ちるかと驚き、もしくは「雲天」(雲海)から注ぐかと比喩を使っています。
 こうした比喩は、いまでは子供っぽいものに思われるかも知れませんが、当時としては非常に斬新な表現であったと思います。

仰観勢転雄    仰ぎ観れば 勢い転うたた雄ゆうなり
壮哉造化功    壮さかんなる哉 造化ぞうかの功こう
海風吹不断    海風かいふう 吹けども断たず
江月照還空    江月こうげつ 照らすも還た空くうなり
空中乱潨射    空中に乱れて潨射そうせき
左右洗青壁    左右さゆう 青壁せいへきを洗う
飛珠散軽霞    飛珠ひしゅ 軽霞けいかを散じ
流沫沸穹石    流沫りゅうまつ 穹石きゅうせきに沸
仰ぎ見れば 勢いはますます強く
大自然の壮大な力に圧倒される
うみからの風にも 吹きちぎられることはなく
江上の月の光は なすところなく照っている
水は乱れて 空中でぶつかり合い
苔むすあたりの岩肌を洗う
飛び散る水は 軽やかな霞となって広がり
流れる飛沫は 岩にあたって舞いあがる

 瀧は自然の壮大な力の象徴としてさらに細かく描写されます。
 流れ落ちる瀧の水は空中でぶつかり合い、飛沫となって舞い上がるのです。李白詩の強烈な表現力が、瀧という対象を得て、あますところなく発揮されているように思います。

而我楽名山    而しこうして 我われは名山を楽しみ
対之心益閑    之に対して心益々閑のびやかなり
無論漱瓊液    論ずる無かれ 瓊液けいえきに漱すすぐを
且得洗塵顔    且つは得たり 塵顔じんがんを洗うを
且諧宿所好    且つは諧かなう 宿もとより好む所
永願辞人間    永ひさしく願う 人間じんかんを辞するを
かくて私は 名山に遊び
山と向かい合って 心はますますのどかである
清らかな水で 口を漱ぐのは当然のこと
俗塵にまみれた顔を 洗うこともできるのだ
かてて加えて かねてからの私の好みに合っている
俗世から辞することが 永い間の願いであるからだ

 名山に遊んだ李白の感想で結ばれます。山と向かい合って「心益々閑」となった李白は、清らかな水で口をすすぐのは当然ですが、俗世の塵にまみれた顔を洗い清めることもできると詠います。
 「人間を辞する」(俗世から退く)という自分のかねてからの願いにもかなっていると、李白は廬山の自然に満足します。

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