寄東魯二稚子 在金陵作 李 白
          東魯の二稚子に寄す 金陵に在りて作る
呉地桑葉緑    呉地ごち 桑葉そうようは緑に
呉蚕已三眠    呉蚕ごさん 已に三眠さんみん
我家寄東魯    我が家いえは東魯とうろに寄
誰種亀陰田    誰か種うる亀陰きいんの田でん
春事已不及    春事しゅんじ 已に及ばず
江行復茫然    江行こうこうた茫然ぼうぜんたり
南風吹帰心    南風なんぷう 帰心きしんを吹き
飛墮酒楼前    飛んで墮つ 酒楼しゅろうの前
呉の桑の葉はまだ緑
蚕もすでに三眠した
東魯にわが家はあるが
誰が亀山の田を耕しているのだろうか
春の植えつけには間に合わず
長江を行ったり来たり ぼんやりと過ごしている
南の風が 帰りたい思いを駆り立て
心は飛んで 魯の酒楼の前に落ちる

 東魯を出て三年になり、李白は東魯に残したままの二人の子供に、すまないという気持ちをこれまでになく強く感じたようです。
 五言二十六句の長詩を送って愛情を述べています。
  はじめの八句は東魯のようすを思いやり、また自分の現状を反省する部分で、南からの風に帰心がつのり、心は飛んで、東魯の「酒楼の前」に墮つと詠います。この酒楼については解釈が分かれていて、李白が東魯で酒屋を営んでいたとか、近所の行きつけの酒屋であるとか、いろいろな解釈がなされていますが、酒好きの李白が自分の家を「酒楼」と諧謔や反省の意を込めて言ったのではないかと思います。
 李白の心が墮ちるとすれば、それは子供たちのいる家の前でなければならないと思うからです。

楼東一株桃    楼東ろうとう 一株いっしゅの桃
枝葉払青烟    枝葉しよう 青烟せいえんを払はら
此樹我所種    此の樹じゅ 我が種うる所
別来向三年    別来べつらい 三年に向なんなんとす
桃今与楼斉    桃 今 楼ろうと斉ひとしく
我行尚未旋    我が行こう 尚お未だ旋かえらず
嬌女字平陽    嬌女きょうじょあざなは平陽へいよう
折花倚桃辺    花を折って桃辺とうへんに倚
折花不見我    花を折って我われを見ず
涙下如流泉    涙は下って流泉りゅうせんの如し
楼の東に一株の桃の木があり
枝葉は靄もやを払うほど伸びている
この樹は私が植えたもの
一別以来 三年になろうとする
桃はいま 楼の高さになっても
私は旅から帰ろうとしない
娘ざかりの平陽は
花を折って桃の木にほとりに立っている
花を折っても父親はおらず
涙は泉のように流れ落ちる

 東魯の家の東側に一本の桃の木が生えていますが、その木は李白が植えたものです。桃は三年もたつと実がなるといわれているほどに生長のはやい木です。
 いまは伸びて楼(必ずしも高楼を意味せず大きな家も楼といいます)の高さほどになつているであろうと、李白は想像します。
 三年もたったのにまだ旅をつづけている自分を反省し、娘の平陽は桃の木のそばに佇んで、父親が帰らないのを悲しんで涙を流しているだろうと思いやるのです。

小児名伯禽    小児しょうじ 名は伯禽はくきん
与姉亦斉肩    姉と亦た肩を斉ひとしうす
双行桃樹下    双行そうこうす 桃樹とうじゅの下もと
撫背復誰憐    背を撫して復た誰か憐あわれまん
念此失次第    此れを念おもうて次第を失い
肝腸日憂煎    肝腸かんちょう 日に憂煎ゆうせん
裂素写遠意    素を裂きて遠意えんいを写し
因之汶陽川    之これを汶陽ぶんようの川に因
息子の名は伯禽
背丈は姉と同じほど
二人並んで桃の木の下に行くが
背中を撫でてくれる人は誰もいない
それを思うと 私はとりみだし
毎日が腹わたを煎るように辛いのだ
白絹を裂いて遠くから憶いをしたため
汶水の流れに託して送り届ける

 李白の子供の生年は不明ですので、推定するほかはありません。
 このとき娘の平陽は十七歳、息子の伯禽は十四歳になっていたと思われます。娘はそろそろ結婚を考えてやらねばならない年齢であるし、息子は背丈が伸びて姉と同じくらいになっているだろうと、李白は想像します。二人並んで桃の木の下に行くけれど、背中を撫でてくれる人は誰もいない。李白は二人を「魯の一婦人」の下ではなく、別に住まわせていたようです。世話をしていたのは、知人か雇人でしょう。
 「肝腸 日に憂煎す」と李白は思いを述べますが、すぐに東魯に帰ることはせず、翌天宝九載(七五〇)の春は金陵で過ごし、夏五月になると廬山に出かけています。

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