対酒憶賀監 二首 其二
         酒に対って賀監を憶う 二首 其の二 李 白


 狂客帰四明     狂客きょうかく 四明しめいに帰れば
 山陰道士迎     山陰さんいんの道士迎う
 敕賜鏡湖水     敕ちょくして鏡湖きょうこの水を賜たま
 為君台沼栄     君が台沼だいしょうの栄えいと為
 人亡余故宅     人は亡びて故宅こたくを余あま
 空有荷花生     空しく荷花かかの生ずる有り
 念此杳如夢     此これを念おもえば杳ようとして夢の如し
 淒然傷我情     淒然せいぜんとして我が情じょうを傷ましむ
狂客先生が四明に帰ると
山陰の道士たちは迎える
天子は 勅命によって鏡湖の水をくだされ
君の庭の山泉に栄誉を添えた
人は死して旧宅を遺し
蓮の花は 池に空しく咲いている
思えば 遥かに遠く夢のようで
淋しさに 私の胸は締めつけられる

 李白は冬から翌天宝六載(七四七)の春まで揚州にとどまり、春の末に長江を遡って金陵(南京市)に行きます。
 金陵(六朝の都建康の雅名ですが、李白はこの名を好んでいました)にはこれまで幾度も立ち寄り、知友も多かったのです。金陵では仲間と飲んでまわり、崔成甫さいせいほの宅に押しかけたりしました。
 崔成甫は御史台の侍御史(従六品下)でしたが、このころ左遷されて金陵にいたのです。金陵で過ごしたあと、夏には長江を下って潤州(江蘇省鎮江市)に立ち寄り、運河に入って南下し、越州(浙江省紹興市)へ行きました。賀知章は天宝三載の正月に職を辞して故郷の山陰(越州の治所)にもどってから、ほどなく亡くなっていました。
 だから、その墓に詣でるのが李白が越州に来た目的のひとつでした。
 詩の初句に「四明に帰れば」とあるのは、賀知章が山陰の東にある四明山を愛し、自分の号に用いていたからです。
 また詩中で「敕して鏡湖の水を賜い 君が台沼の栄と為す」と言っているのは、賀知章が都を辞するときに、玄宗が鏡湖・剡川の一曲を下賜したので、そのことを名誉として述べ、死ねばそうした栄誉も空しいことを悲しんでいるのです。

  登金陵鳳皇台     金陵の鳳皇台に登る   李 白

 鳳皇台上鳳皇遊
   鳳皇ほうおう台上 鳳皇遊びしが
 鳳去台空江自流   (ほう)去り(だい)空しゅうして 江自ら流る
 呉宮花草埋幽径   呉宮の花草かそう 幽径ゆうけいを埋うず
 晋代衣冠成古丘   晋代の衣冠いかん 古丘こきゅうと成れり
 三山半落青天外   三山さんざん半ば落つ 青天せいてんの外
 一水中分白鷺洲   一水いっすい中分す 白鷺洲はくろしゅう
 総為浮雲能蔽日   ()べて浮雲(ふうん)()く日を蔽うが為に
 長安不見使人愁   長安は見えず 人をして愁うれえしむ
金陵の鳳皇台上で かつて鳳凰は遊んだが
鳳凰は去って 長江は虚しく流れる
呉宮の草花は 小径の雑草に埋もれ
晋朝の貴人は 古びた塚となる
三山の嶺は 半ば青天のそとへ傾き
長江の流れは 白鷺洲で二分される
だがすべて 光は雲に蔽われて
長安は遥かに遠く 私は愁いに沈むのだ

 越州の山陰で賀知章の墓に詣でて詩を献じたあと、李白は四明山に登り、さらに南下して天台山に至ります。
 李白は天姥山を望む地に来たわけですが、そこには留まらず、冬には金陵にもどってきました。
 天宝七載(七四八)は夏になると再び揚州に行き、秋には西にもどって霍山かくさん(安徽省六安市の南)に遊び、冬には廬江(安徽省廬江県)太守の呉王祗ごおうしを訪ねています。翌天宝八載(七四九)の春には廬江から金陵にもどり、この年は金陵に留まっていましたので、金陵を題材とした詩を三首ほどつづけて取り上げます。
 金陵で作った詩は制作年の不明なものが多いのですが、掲げた詩は南朝の都であった建康(金陵は雅名)が滅んで、いまはその跡だけがかつての栄華の面影を伝えていると詠います。
 そして「長安は見えず 人をして愁えしむ」と結んでいます。
 実際の長安が見えないのは当然であり、ここでは長安にいる天子の聡明さが覆い隠されて見ないと言っているのであり、時の政事のあり方を愁えているのです。

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