淮陰書懐寄王宋城
         淮陰にて懐いを書して王宋城に寄す 李 白

 
 沙墩至梁苑
    沙墩さとんより梁苑りょうえんに至る
 二十五長亭    二十五の長亭ちょうてい
 大舶夾双櫓    大舶たいはく 双櫓そうろを夾さしはさ
 中流鵝鸛鳴    中流に鵝鸛がかん鳴く
 雲天掃空碧    雲天うんてん 掃いて空碧くうへき
 川岳涵余清    川岳せんがくひたして余清よせい
 飛鳧従西来    飛鳧ひふ 西より来たり
 適与佳興并    適たまたま佳興かきょうと并あわ
 眷言王喬舃    眷かえりみて言う 王喬おうきょうの舃せきなりと
 婉孌故人情    婉孌えんれんたり 故人こじんの情
沙邱から梁園まで
二十五の駅亭がつらなる
大船に双ふたつ櫓を並べ
中流では鵝鳥や鸛こうのとりが鳴いている
空は青く澄み 雲はなく
山を映して 川は清らかである
そのとき鴨が 西から飛んできて
いっそうの興趣を添える
思えばこれは  王喬の履くつ
なんという美しい友情であることか

 天宝五載の秋に、李白は「夢に天姥に遊ぶ吟 留別」という全四十五句の長詩を残して東魯を旅立ちます。
 留別の詩によると、越州(浙江省紹興市)の南の山中にある剡中せんちゅうに行って、天姥山てんぼさんで道士としての生活をすると書かれています。子供の平陽と伯禽、「魯の一婦人」とその子の頗黎、四人の家族は東魯に残したままの旅立ちです。
 掲げた詩のはじめの十句は「梁苑」、つまり宋州の宋城(河南省商丘市)に行って王県令の世話になったくだりです。この詩の注目点は「王喬の舃せき」で、後漢の王喬の故事を踏まえています。
 後漢の顕宗のころ葉県(河南省平頂山市)の県令であった王喬は、毎月きまって一日と十五日に宮中(後漢の都洛陽)に参内します。
 不思議に思った顕宗が調べさせると、王喬が来るときにはいつも二羽の鴨が葉県の方から飛んでくるのです。そこで役人に命じてその鴨を捕らえてみると、それは一足の「舃」(礼装用の重ねくつ)でした。
 李白は王県令の招待を「王喬の舃」に例えて、親密さ、礼の厚さを強調しながら感謝の気持ちを述べているのだと思います。しかし、主客を転倒させて、感謝が卑屈にならないように配慮しています。
 「飛鳧 西より来たり」というのは鴨が西から東へ飛んできたということで、王喬の場合とは逆に宋城の方から東魯の方に飛んできたことになるのです。
 誇り高い詩人として、誇りを保ちながら世話になった礼は言う、そのために故事を引用するという詩人の苦心の表現なのです。

復此親懿会    此の親懿しんいの会を復ふたたびし
而増交道栄    而しこうして交道こうどうの栄えいを増す
沿洄且不定    沿洄えんかいつ定まらず
飄忽悵阻征    飄忽ひょうこつとして阻征そせいを悵いた
暝投淮陰宿    暝くれに淮陰わいいんに投じて宿やど
欣得漂母迎    欣よろこび得たり 漂母ひょうぼの迎え
斗酒烹黄鶏    斗酒としゅ 黄鶏こうけいを烹
一餐感素誠    一餐いっさん 素誠そせいを感ず
再びお会いする機会を得て
いっそうの親しみを感じている
上り下りの水路さえ定まらず
行ったり来たり 慌ただしいのが悔やまれる
日暮れに淮陰に着き 宿をとると
幸いにも 漂母が迎えてくれる
充分な酒に鶏の料理
心温まるもてなしを受けた

 詩題によると李白は宋城から淮陰(江蘇省淮陰県)に行って、そこから王県令にお礼の詩を送っています。このことから、李白は運河を利用して江南に向かっていることがわかります。
 今日の中八句では、長安を去ったあと宋州で遊び、東魯に行ったかと思うと今度は江南へ下ろうとする、そうした自分の行動を「飄忽」(軽くあわただしい)と言って反省してみせています。
 そして淮陰に着けば、韓信の故事「漂母」を持ち出して、地元の人々から斗酒と黄鶏の煮物で歓待を受けたことを報告しています。

予為楚壮士    予は楚の壮士そうしたり
不是魯諸生    是れ魯の諸生しょせいならず
有徳必報之    徳有れば必ず之これに報むく
千金恥為軽    千金も恥じて軽かるしと為
緬書羇孤意    緬書めんしょす 羇孤きこの意
遠寄棹歌声    遠寄えんきす 棹歌とうかの声
私は楚の壮士
魯の儒生ではない
恩を受ければかならず報い
千金の謝礼も恥ずかしく思う者
よって 孤独な旅の思いを書きつづり
舟歌に託して お届けする次第である

 最後の六句は結びで、自分は楚の壮士であり、魯の儒生じゅせいなどではない。恩を受ければ、恩にはかならず報い、お礼などは受け取りませんと見栄を切ります。李白はこのあと、淮陰のすぐ南の安宜(江蘇省宝応県)に行って、ここでも県令の徐じょという人の世話になり、徐県令の善政をほめる詩を贈っています。さらに揚州へ向かって運河を下る途中、湖畔の城市で旧知の常じょうという人の家に泊まっています。
 このように李白の旅は、各地の県令や資産家の知識人と交流を重ねながら、ということは招待を受けながらの旅であったようです。

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