魯郡東石門送杜二甫 魯郡の東 石門にて杜二甫を送る 李 白
酔別復幾日    酔別すいべつた幾日いくにち
登臨徧池台    登臨とうりん 池台ちだいに徧あまね
何言石門路    何ぞ言わん 石門せきもんの路みち
重有金樽開    重ねて金樽きんそんの開く有らんと
秋波落泗水    秋波しゅうは 泗水しすいに落ち
海色明徂徠    海色かいしょく 徂徠そらいに明かなり
飛蓬各自遠    飛蓬ひほう 各自かくじ遠し
且尽林中盃    且しばらく林中りんちゅうの盃はいを尽くさん
別れの酒で 幾日になるであろうか
山に登り 苑池楼台もめぐりつくした
いつの日か この石門の路で
酒樽をあけ 再び飲み明かす時が来るであろうか
秋になれば 泗水の水かさは減り
海は 徂徠山の彼方で照り映えている
やがて二人は 飛蓬のように別れて遠ざかるであろう
さあもう一杯 この林中で飲みつくそうではないか

 李邕を訪ねたあと、李白は任城にもどり、杜甫は斉州にとどまっていますが、秋になると杜甫は任城に李白を訪ねて、しばらく一緒に過ごします。李白に連れられて魯郡の東の蒙山もうざんに董とう錬士を訪ねたり、魯城の北郭に住む范はん隠士と交流したりして、杜甫はこの時期、いくらか道教や隠士の生活に触れたようです。
 しかし、深入りはしませんでした。
 このころ杜甫の父親は奉天(陝西省乾県)の県令になっていて、杜甫は父杜閑から長安に出てくるように促されていたようです。
 二度の秋を一緒に過ごした李白と杜甫に別れのときが迫っていました。二人は魯郡曲阜(山東省曲阜県)の東北にある石門山の麓で別れの杯をかわします。
 李白の詩だけが残されていますが、杜甫も詩を作ったはずです。
 しかし、杜甫の詩は失われています。
 李白は杜甫の未来を祝福して、「海色 徂徠に明かなり」と詠います。海は見えないのですが、徂徠山の向こうで輝いているというのです。李白も杜甫も再会を期待したと思いますが、二人に二度と会う機会は訪れませんでした。


沙邱城下 寄杜甫 沙邱城下 杜甫に寄す  李 白
我来竟何事    我われきたる 竟ついに何事ぞ
高臥沙邱城    高臥こうがす 沙邱城さきゅうじょう
城辺有古樹    城辺じょうへん 古樹有り
日夕連秋声    日夕にっせき 秋声しゅうせいを連つら
魯酒不可酔    魯酒ろしゅ 酔う可からず
斉歌空復情    斉歌せいか 空しく情を復かさ
思君若汶水    君を思うこと汶水ぶんすいの若ごと
浩蕩寄南征    浩蕩こうとうとして南征に寄
私がここへ来たのは 何のためであったのか
沙邱の城で ただ寝ているだけである
城壁のほとりに 古い樹があり
朝から晩まで 秋風に鳴っている
魯の酒は 薄くて酔えず
斉の歌は 心をゆるがすものがない
君を思えば 汶水の流れのように
広々と心は溢れ 南への思いがつのる

 李白は杜甫を見送ると、秋から冬にかけて魯郡の南に知友を訪ね、金郷(山東省金郷県)や単父ぜんふの街で過ごしています。
 このころ李白は南陵の鄭氏に預けていた長女平陽と長男伯禽はくきんを東魯に引き取ったのではないかと思われます。李白自身が南陵に出かけたようすはありませんので、人を頼んで連れてきてもらったのでしょう。長安を辞したあと東魯にとどまって南陵にもどってこない李白に、鄭氏があいそをつかしたのかもしれません。
 このころ李白には「魯の一婦人」とのあいだに次男頗黎はれいが生まれていますので、さすがの李白も江南の鄭氏までは手がまわりかねたのでしょう。天宝五載(七四六)の春、李白は病気になり、任城にんじょうの「魯の一婦人」のもとで秋まで療養をしていました。
 秋になって疾が癒えると、長安にいる杜甫に詩を送っています。
 このころ杜甫は都で官職を求めて活動をはじめていましたので、李白もじっとして居れない気持ちになっていたようです。
 道士になってはみたものの、それですぐさま出世の機会がつかめるものでもなく、李白は空虚な気持になっていました。
 それを満たすのは旅しかありません。
 李白には春のころから「南征」(江南への遍歴)への思いがきざしていましたが、病気をしたためにそれが延び延びになっていたのです。

目次二へ