鹿柴          鹿柴    裴 迪
日夕見寒山     日夕 寒山を見ては
便為独往客     便ち独往の客と為る
不知松林事     知らず 松林の事
但有麏鹿跡     但だ麏鹿の跡有るのみ
日が暮れて 寂しい山をみつけると
たまらずに ひとりで山中へ分け入った
松林の奥に なにがあるのかわからない
あるのはただ 鹿の残した足跡だけ

 裴迪(はいてき)は若いころから王維(おうい)と親しく、王維が輞川荘(もうせんそう)に閑居したとき、王維の詩に唱和して共に『輞川集』を編みました。
 掲げた詩も『輞川集』中の一首です。裴迪は『輞川集』一巻によって有名ですが、生没年は不明、王維と同世代でしょう。
 進士には及第していたらしく、王維の死後、蜀州(成都)の刺史となり、尚書郎となりました。
 蜀州在任中には杜甫と詩の応酬をしています。
 詩中「麏鹿(きんか)」はのろ鹿と雄鹿です。


 田家春望        田家春望   高 適
出門何所見     門を出でて何の見る所ぞ
春色満平蕪     春色 平蕪(へいぶ)に満つ
可歎無知己     歎ず可し 知己無きを
高陽一酒徒     高陽の一酒徒
門を出て いざ行こうと見わたせば
野原はいまや芽吹く春
嘆かわしいのは 天下に友がいないこと
儒者ではないぞ おれは高陽の一酒徒だ

 高適(こうせき)は滄州勃海(河北省滄県)の出身で、若いころには定職に就かず任侠の徒と交わって各地を旅していました。
 詩はそのころの意気盛んな気分を詠んだものです。
 「高陽一酒徒」は『史記』高祖本紀に出てくる高陽(河南省杞県)の酈食其(れいいき)のことで、漢の高祖劉邦が沛公を名乗って秦軍と闘っていたとき、酈食其は劉邦の謀臣となって天下統一に寄与しました。
 若い高適は英雄気取りで諸国を歩いていたようです。


 逢侠者         侠者に逢う    銭 起
燕趙悲歌士     燕趙 悲歌の士
相逢劇孟家     相逢う 劇孟の家
寸心言不尽     寸心 言い尽さざるに
前路日将斜     前路 日 将に斜めならんとす
顔役の家で燕趙の
悲歌慷慨の士と逢った
胸の内を 言い尽くせないでいるうちに
路のゆく手に 夕陽は沈む

 銭起(せんき)は中宗の景雲元年(七一〇)ころの生まれといいますから、杜甫と同世代です。天宝十年(七五一)に進士に及第していますので、四十歳を過ぎてから官途に就いたことになります。藍田(陜西省藍田県)の県尉を経て秘書省校書郎(正九品上)、尚書省吏部考功郎中(従五品下)を務めたあと、代宗の大暦年間に翰林学士になっていますので、安史の乱を乗り切って出世したことになります。詩は任官前の若いころの作品でしょう。
 「燕趙悲歌士」は『史記』刺客列伝の荊軻(けいか)を踏まえていますし、「劇孟(げきもう)」は『史記』游侠列伝に出てくる洛陽の侠客です。銭起も若いころには高適(こうせき)のように諸国を遍歴して有志の士と交わったようです。
 徳宗の建中三年(七八二)ころに、七十三歳くらいで没しています。

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