翰林読書言懐呈集賢院内諸学士 李 白
    翰林に読書して懐いを言い集賢院内の諸学士に呈す
晨趨紫禁中    晨あしたに紫禁しきんの中うちに趨はし
夕待金門詔    夕ゆうべに金門きんもんの詔しょうを待つ
観書散遺帙    書を観て遺帙いちつを散じ
探古窮至妙    古いにしえを探って至妙しみょうを窮きわ
片言苟会心    片言へんげんし心に会すれば
掩巻忽而笑    巻を掩おおいて忽ちにして笑う
青蠅易相點    青蠅せいようあいけがし易やす
白雪難同調    白雪はくせつ 同調どうちょうし難がた
本是疎散人    本もとれ疎散そさんの人
屢貽褊促誚    屢しばしば褊促へんそくの誚そしりを貽おくらる
早朝には 皇居に参内し
夕べには 翰林院で勅命を待つ
遺された帙を解いて 古書を調べ
旧きを探っては 政事の妙理を解する
すこしでも 心に適うことがあれば
巻を蔽って 快心の笑みをもらす
青蠅は 白い玉をけがしやすく
白雪の曲に 和するのは困難である
私はもともと 杜撰ずさんな人間だから
しばしば偏屈短気のそしりを受けた

 李白は求めがあれば詩を献ずると同時に、普段は翰林院に出仕して古い書類を調べ、政事せいじの妙理を学び、すこしでも心にかなうことがあれば、快心の笑みをもらします。勅命があれば出師表すいしのひょうや外交文書の草案を起草し、国政の一部に参画したのです。
 しかし、夏が過ぎるころになると、次第に同僚との折り合いが悪くなってきました。年を取っていましたが、李白は役所では新参者ですし、役所の仕来たりや狎れ合いの部分に通じていなかったでしょう。
 加えて李白は、そうした人間関係の細かい部分に気配りをするような性格の持ち主ではありませんでした。
 小役人には不向きな性格といえます。もちまえの自信からくる傲慢不遜な態度も目立つようになり、秋口になると李白の耳に自分に対する悪口が聞こえてくるようになります。

雲天属清朗    雲天うんてん 清朗に属ちか
林壑憶遊眺    林壑りんがく 遊眺ゆうちょうを憶う
或時清風来    或時あるときは清風来たり
閒倚欄干嘯    閒かんに欄干に倚りて嘯うそぶ
厳光桐廬渓    厳光がんこう 桐廬とうろの渓けい
謝客臨海嶠    謝客しゃかく 臨海りんかいの嶠きょう
功成謝人君    功成り人君じんくんに謝し
従此一投釣    此これより一に投釣とうちょうせん
しかし 空は晴れて澄みわたっているので
山林幽谷に遊んだ日を想い出す
ときには涼しい風が吹けば
欄干のあたりで のどかに詩を吟ずる
厳光が糸を垂れた桐廬の流れ
謝霊雲が登った臨海の山のいただき
功業が成れば 君王にいとまを戴き
以後はいちずに釣り糸を垂れるといたそう

 唐の段成式だんせいしきが書いた『酉陽雑俎』ゆうようざっそに、宦官で玄宗お気に入りの高力士に李白が皇帝の前で自分の履くつを脱がせたという話が載っているそうですが、李白はそういう無作法なことをする人間ではないと思います。しかし、正義感が強く、思ったことを直言するので、同僚からはうとまれていたかも知れません。李白が役所の欄干のあたりで吟じた詩は、最後の二聯四句かも知れません。
 「厳光」は後漢の厳子陵がんしりょうのことで、光武帝の創業に功績がありましたが、光武帝が即位すると招きに応ぜず、故郷の桐廬渓(浙江省桐廬県の川)で釣りをして過ごしたといいます。「謝客」は南朝宋の謝霊雲しゃれいうんのことで、自然詩人として有名でした。例によって功成れば隠遁すると富貴に恬澹とした志を述べるのです。

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