古風 其一     古風 其の一  李 白
大雅久不作    大雅たいが 久しく作おこらず
吾衰竟誰陳    吾れ衰おとろえなば竟ついに誰か陳べん
王風委蔓草    王風おうふうは蔓草まんそうに委てられ
戦国多荊榛    戦国には荊榛けいしん多し
龍虎相啖食    龍虎りゅうこ 相い啖食たんしょく
兵戈逮狂秦    兵戈へいか 狂秦きょうしんに逮およ
正声何微茫    正声せいせい 何ぞ微茫びぼうたる
哀怨起騒人    哀怨あいえん 騒人そうじんより起こる
揚馬激頽波    揚馬ようば 頽波たいはを激げき
開流蕩無垠    流れを開き 蕩とうとして垠かぎり無し
廃興雖万変    廃興はいこう 万変ばんぺんすと雖も
憲章亦已淪    憲章けんしょうた已に淪ほろ
詩経大雅のような詩は 久しく起こらず
私がやらねば 誰がそれを成し遂げられよう
王風の伝統も 蔓草つるくさにうずもれ
戦国時代には 荊いばらの雑木が生い茂る
龍虎が 食い合うような乱れた世で
戦禍は 狂秦の天下統一までつづく
詩歌の正しい調は かすかなものとなり
哀怨の楚辞だけが 屈原から起きたのだ
揚雄と司馬相如が 衰えた波に力を与え
賦の流れを開いて 滔々と盛りかえす
詩歌の興廃は 時とともに変化して
正しい規則は たしかに失われている

 当時の李白は玄宗の寵妃楊太真を褒めあげ、天子を喜ばせるような詩だけを書いていたのではありません。
 翰林学士として国家の役に立ちたいと思っていたのです。
 吐蕃のような周辺国との国交を円滑にする「和蕃書」の起草をしたり、朝臣としての仕事もしています。
 詩の分野では、李白に「古風五十九首」(現存)という連作があり、李白の人生観や政事理念を直接に詩の主題にしています。
 ただし、内容的に見て連続して作られたものではなく、生涯のいろいろな時期に作ったものを、のちに一括して「古風」と題してまとめたものとみられます。「古風」は盛唐の詩、つまり当世風の近体詩に対して古体詩の正統性を見直そうという意識のもとにつけられた題名であり、詩に対する李白の意気込みを感じさせるものです。
 「古風 其の一」は李白が官吏としても詩人としても意欲充分であった天宝二年夏のころの作品ではないでしょうか。二十四句の詩の前半は、李白の時代までの詩の歴史を概観し、蜀の先輩詩人である漢代の揚雄ようゆうと司馬相如しばそうじょの賦を高く評価しています。

自従建安来    建安けんあんより来のかたは
綺麗不足珍    綺麗きれいにして珍ちんとするに足らず
聖代復元古    聖代 元古げんこに復し
垂衣貴清真    衣を垂れて清真せいしんを貴ぶ
群才属休明    群才 休明きゅうめいに属し
乗運共躍鱗    運に乗じて共に鱗うろこを躍おどらす
文質相炳煥    文質ぶんしつ 相い炳煥へいかん
衆星羅秋旻    衆星しゅうせい 秋旻しゅうびんに羅つらなる
我志在刪述    我が志は刪述さんじゅつに在り
垂輝映千春    (ひか)りを垂れて千春(せんしゅん)(てら)さん
希聖如有立    聖を希ねがいて如し立つ有らば
絶筆於獲麟    筆を獲麟かくりんに絶たん
建安以来の文学は
綺麗なだけで 珍重するに値しない
聖天子の御代となり 太古の姿に復し
衣装を垂れて 無為の政事を貴んでいる
群がる才能は すぐれた世にめぐり合い
時運に乗じて 鱗をきらめかせる
表現と実質は 互いに響き合い
無数の星となって 秋の夜空につらなっている
わが志は 孔子のように正しい詩を選び集め
千年の後まで ひかり輝かすことにある
聖人の偉業を慕って事が成れば
わたしも獲麟の条で筆を擱こう

 「建安」は三国時代の建安年間に魏の曹操・曹丕・曹植の父子や建安七子(孔融ら七人の文人)によって作り上げられた文学のことで、長篇の叙事韻文であった漢代の賦に代わって、短篇で抒情を主体とする五言詩が成立する時代をさします。唐代にいたる詩の歴史がはじまる時期として文学史上では高い評価を得ている時代ですが、李白はそれを「綺麗にして珍とするに足らず」と否定しています。
 自分の志は、『詩経』を選び集めた孔子のように正しい詩を「刪述」(選び集める)することにあると抱負を述べていますが、集めるほどの詩がないので自分で作ることにしたのでしょう。
 それが「古風五十九首」というわけです。
 結句の「獲麟」は孔子が魯の哀公十四年(前四八一)春の獲麟の条で『春秋』の筆を擱いていることをさしており、事が成れば山林に隠れるという李白愛用の姿勢と同じと見ていいでしょう。

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