侍従遊宿温泉宮作 侍従して遊び温泉宮に宿して作る 李 白
羽林十二将    羽林うりんの十二将
羅列応星文    羅列られつして星文せいもんに応ず
霜仗懸秋月    霜仗そうじょう 秋月しゅうげつを懸
霓旌巻夜雲    霓旌げいせい 夜雲やうんを巻く
厳更千戸蕭    厳更げんこう 千戸蕭つつし
清楽九天聞    清楽せいがく 九天きゅうてんに聞こゆ
日出瞻佳気    日出でて佳気かきを瞻
叢叢繞聖君    叢叢そうそうとして聖君を繞めぐ
護衛の将軍は十二将
星宿せいしゅくの方位に応じて配置につく
秋月の光に冴えて 儀仗の刃は霜のように白く
天子の旗は 夜空の雲を巻いてひるがえる
刻を告げる太鼓の音に 千戸の家は静まりかえり
清らかな楽のしらべが 九重の奥から聞こえてくる
やがて朝日が昇ると 聖天子の香気は
御座所をめぐって 神々しく流れはじめる

 詩人で大官の賀知章が李白を「謫仙人」と褒めちぎったので、都での李白の詩名は急速に高まります。詩名は玄宗皇帝の耳に達し、李白は特別のお召しを受けて翰林学士に登用されます。
 しかし、これには裏があったかもしれません。
 皇帝の妹玉真公主は女道士になっていて、玉真観という道観に住み、持盈じえい法師と称していました。
 道教の筋から李白のことが公主の耳に達し、公主の意向を受けて賀知章が李白に会いにきたとも推定されます。
 それから李白は「翰林供奉」になったのであって、正規の採用ではないという説も行われていますが、翰林院に召し出された人材は、翰林院発足の当初は翰林待詔もしくは翰林供奉と称されていました。
 李白が翰林院入りした天宝元年(七四二)には翰林学士と呼ぶように改められていましたので、李白は翰林学士に採用されたのです。
 しかし、李白は学士と称するのを嫌い、旧い供奉という言い方を好んだのだと思います。翰林学士は令外りょうげの官で、天子の特命に応じていろいろなことができる自由な官職でした。
 玄宗はこの年、十月二十六日から十一月二十八日まで寵妃の楊太真をともなって驪山の温泉宮に行幸します。
 李白は行幸に従駕して、さっそく詩を献じています。
 詩はまことにまともな詩であって、李白らしい面白さがありません。
 李白はまじめに朝臣としての役割を果たそうとしていたのです。


 送賀賓客帰越    賀賓客が越に帰るを送る  李 白

 鏡湖流水漾清波
  鏡湖きょうこ 流水 清波せいはを漾ただよわし
 狂客帰舟逸興多  狂客きょうかくの帰舟きしゅう 逸興いつきょう多し
 山陰道士如相見  山陰さんいんの道士 如し相あい見れば
 応写黄庭換白鵝  (まさ)黄庭(こうてい)を写して白鵝(はくが)に換うべし
鏡湖・剡水せんすいは 清らかに波うち
四明狂客のご帰還とあれば 面白いことも多いでしょう
越州の道士に会ったら ちょうどよい
黄庭経を写して白鵝がちょうと換えるのです

 天宝二年(七四二)の十二月、賀知章は八十六歳の高齢でもあり、病気がちでもあったので、道士になって郷里に帰ることを願い出て許されました。翌天宝三載(この年から年を載というように改められました)の正月五日に、左右相以下の卿大夫けいたいふが長楽坡で賀知章を送別し、李白も詩を贈っています。詩題に「賀賓客」とあるのは賀知章が太子賓客(正三品)で職を辞したからであり、「狂客」と言っているのは、賀知章が「四明狂客」しめいきょうかくと号していたからです。
 賀知章は故郷の山陰(浙江省紹興市)に帰ってゆくので、帰ったら「黄庭経」(道教の経典)を書写して鵝鳥と交換なさればよいと、李白は戯れています。賀知章には充分な資産が支給されていますので、生活に困ることはなかったはずです。

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