勅命三たび下れば 帰らぬこともあるかも知れぬ
明朝別れて 呉の関門を出る
玉殿高楼は 見ようとしても看ることはできない
恋しい時は 望夫山に登って偲んでくれ
詩題に「内に別れて」とありますが、「内」つまとは鄭氏のことで、正式に結婚した妻ではありません。
また「王命三たび徴す」とありますが、これは当時の慣用的な言い方で、勅命を受けても三度目に応ずるのが礼儀とされていました。
諸葛孔明の草廬の三顧と同じです。
李白はしばらくもどれないかも知れないが、恋しいときは望夫山に登って偲んでくれと、鄭氏に因果を含めています。
門を出るや 妻子は衣ころもにすがりつき
都に行けば 帰るのはいつかと尋ねる
帰って来たとき 黄金の印綬いんじゅを佩びていたら
蘇秦の妻も 機織りの手をやすめて迎えたであろう
推定では、このとき娘の平陽は十歳、息子の伯禽は七歳になっていたはずです。父親を慕う年ごろになっていますので、東魯に行っていっしょに暮らす期待に胸をふくらませていたと思います。
それが駄目になり、子供たちは父親の袖にすがって別れを悲しんだに違いありません。都からもどるのは何時かと鄭氏に尋ねられて、もし黄金の印綬を佩びて、つまり出世して帰ってきたならば、蘇秦の妻も機はた織りの手を休めて迎えに出てきたであろうと、蘇秦の妻の故事を持ち出して皮肉を言っているようです。
蘇秦が出世もせずに洛陽の家に帰ってきたとき、蘇秦の妻は機織りの手をやすめもせずに、出迎えもしなかったという話があります。
子供を引き取る話が駄目になって、鄭氏はすこしおかんむりだったのかもしれません。
翡翠の楼閣 黄金の梯子で住もうとも
門に佇み ひとり身を嘆いて泣くのは誰であろう
夜は寒々とした火影で泣き 明け方までつづく
涙はたえまなく流れ 楚関の西で泣き尽くすのか
南陵の別れの一連の詩では、「会稽の愚婦」や「機を下られざる」蘇秦というように、朱買臣の妻や蘇秦の妻の故事を持ち出して、出世前の蘇秦や朱買臣が妻から大切にされなかったことを例に引いています。
このことから、李白は南陵の鄭氏から重んぜられていなかったとする説があります。もっとも子供を預けて自分は東魯で気ままな旅をしているようでは、自分の子供でもない二人を預けられている鄭氏が不機嫌になるのも当然でしょう。其の三の詩は意味不明なところがあります。たとえ立派な御殿に住んでいるような者であっても、別れて暮らすのはつらく悲しいことであろう。
私が居なくては、恋しくて泣き暮らすことになると思うが、しばらく我慢をしてくれ、と鄭氏を慰めている詩のように思われます。