南陵別児童入京 南陵 児童に別れて京に入る 李 白
新しい酒ができたころ 山中の家に帰る
おりしも秋 鶏は黍きびを食べて肥えている
童僕を呼び 鶏とりの料理で酒を飲む
息子や娘は喜んで 衣ころもを引いてたわむれる
高らかに歌い 酔ってみずから慰めようと
立って舞えば 夕陽もいっしょに煌めくようだ
遅まきながら 天子に遊説することになり
鞭を執り 馬に跨って都へゆく
会稽の愚婦は 朱買臣を軽んじたが
余もまた家を去って 西のかた長安に向かう
天を仰ぎ 大いに笑って門を出ていく
吾輩はもともと田舎に埋もれるような者ではない
天宝元年(七四二)正月、玄宗皇帝は人材推薦を求める詔勅を発しました。このとき李白は東魯にいたはずです。通説では『旧唐書』にある説を採って、李白は道士の呉筠ごいんと越の剡中せんちゅうにいて、まず呉筠が都に招かれ李白を推薦したことになっています。
しかし、李白にはこの年の四月作と題注のある「遊太山六首」という作品があり、四月に泰山に登っています。だから李白は、そのあと東魯を後にして江南へ旅立ったと思われます。目的はおそらく南陵の鄭氏に預けてある二子を引き取るために南陵に向かったのでしょう。
その旅のどこかで李白は、もし天子の人材推薦の詔勅に応ずる気があるなら推薦しようという有力者がいるとの報せを受け取ったと思われます。李白は急いで南陵にゆき、事情が変わったので子供を引き取ることはしばらく見合わせたいと鄭氏に伝え、勇躍して都へ旅立ったものと思われます。
烏棲曲 烏棲曲うせいきょく 李 白姑蘇台上烏棲時 姑蘇こその台上 烏からす棲む時
姑蘇山の台上で 烏が寝ようとする時
呉王夫差の宮殿では 西施が酒に酔いしれる
呉歌よ楚舞よと 楽しみは尽きることなく
山の端には半輪の陽 沈もうとしていまだ沈まぬ
金の壺に銀の針 漏刻の水は滴りつづけ
身を起こせば秋の月 江かわの波間に沈みゆく
東天やがてほの白くなろうとも 歓楽の時は果てしない
李白が都についたのは秋のなかば過ぎ、遅くとも晩秋九月はじめのころと思われます。
長安についた李白は老子を祀る玄元廟げんげんびょうに宿を取りました。
するとそれを待っていたように詩人で秘書監(従三品)の賀知章がちしょうが訪ねてきました。賀知章はこのとき八十四歳の高齢でした。
賀知章は李白が差し出した詩を読んで「此の詩、以て鬼神を哭せしむべし」と称賛し、李白を「謫仙人」たくせんにんと言って褒めました。
「謫仙人」とは天上から地上に流されてきた仙人という意味であって、道教の立場からは大変な褒め言葉です。
このとき賀知章に見せた詩を、孟棨もうけいの『本事詩』では「蜀道難」であったと言っていますが、そうではなく李白が三年前に呉に行ったときに作った「烏棲曲」ではなかったかとする説もあります。
「烏棲曲」は楽府題であり、李白の制作意図としては単に春秋呉越戦争の時代の懐古詩を作ったのに過ぎないと思われます。
しかし、賀知章にとっては、皇帝が息子寿王の妃楊玉環ようぎょくかんを召し上げて女道士とし、宮中に入れて太真たいしんと名を変えさせ溺愛しはじめた玄宗の生活を諷したものに思え、感激したのでしょう。