贈従兄襄陽小府皓 従兄襄陽の小府皓に贈る 李白
結髪未識事    結髪けつはつ 未だ事を識らず
所交尽豪雄    交る所は尽ことごとく豪雄なり
卻秦不受賞    秦しんを卻しりぞけて賞を受けず
撃晋寧為功    晋しんを撃って寧なんぞ功と為さんや
託身白刃裏    身を白刃の裏うちに託し
殺人紅塵中    人を紅塵こうじんの中うちに殺す
当朝揖高義    当朝とうちょう 高義に揖ゆう
挙世欽英風    挙世きょせい 英風を欽きん
小節豈足言    小節しょうせつに言うに足らんや
退耕舂陵東    舂陵しょうりょうの東に退耕たいこう
二十歳のころは 世間のことに無知で
もっぱら荒っぽい仲間と交わっていた
秦を撃退しても 賞を受けない魯仲連ろちゅうれん
晋鄙しんぴを殺しても 手柄としない朱亥しゅがいを気取る
白刃の間にわが身をさらし
街中で人を殺した
だから官職にある者も 私の義侠を拝し
世はこぞって 私の勇気に敬意を払った
だが枝葉末節を無視したために
退いて舂陵の東に耕す身となる

 開元二十七年(七三九)の夏、李白は運河を下って揚州へゆき、さらに呉の地一帯を再遊したようです。
 秋には長江を遡って巴陵(湖南省岳陽市)まで足を延ばしています。
 その途中、南陵(安徽省南陵県)に立ち寄って鄭という女性と知り合った可能性があります。
 桃花巌の自宅にもどったのは冬になってからでした。
 二年間にわたる遍歴の旅は、李白に何をもたらしたのでしょうか。
 旅の行程をみると官途に就く目的に適っているとも思われず、詩人としての見聞を広めるためであったとすれば、当時としてはかなり特異な旅であったといえます。
 翌開元二十八年(七四〇)のはじめには、李白は桃花巌から舂陵(湖北省棗陽県の東)の東郊に移っていたようです。舂陵しょうりょうは安陸よりも襄陽に近く、許氏の妻が亡くなったために桃花巌の許氏の荘園を出なければならなくなったのではないかと想像されます。
 李白はそのころ生活に困窮していたらしく、前から接触を試みていた襄陽の県尉李皓りこうになりふりかまわぬ嘆願の詩を贈っています。

帰来無産業    帰り来って産業さんぎょう無く
生事如転蓬    生事せいじ 転蓬てんぽうの如し
一朝烏裘敝    一朝いっちょう 烏裘うきゅうやぶ
百鎰黄金空    百鎰ひゃくいつ 黄金おうごんむな
弾剣徒激ミ    剣を弾だんじて徒いたずらに激ミし
出門悲路窮    門を出でて路みちの窮きわまるを悲しむ
吾兄青雲士    吾兄ごけいは青雲の士
然諾聞諸公    然諾ぜんだく 諸公に聞こゆ
所以陳片言    所以ゆえに 片言へんげんを陳
片言貴情通    片言 情じょうの通ずるを貴とうと
棣華儻不接    棣華ていかし接せざれば
甘与秋草同    甘んじて秋草しゅうそうと同じからん
帰ってきても 仕事はなく
生活のために 転蓬のように転げまわる
一朝にして黒い毛皮の衣は破れ
二千両の黄金も使い果たした
剣をたたいて いたずらに激ミし
門を出ても ゆく先がないのを悲しむ
兄事するあなたは将来有望の人
許諾に二言のないことは知れわたっている
だから一こと 陳情を申し上げる
このひとこと どうか聞き入れてほしい
常棣の花に もしも接ぎ木ができないならば
秋草といっしょに 凋むほかはないのです

 李白の排行は十二で、次男であったらしいので、年長の従兄がいたのは確かです。そのひとりが襄陽の小府(県尉)であったかどうかは、はなはだ疑わしいとされています。李白は同姓とみれば叔父とか従兄とかいって親戚扱いするのが、世渡りの常でした。
 詩の前半は史書の英雄を引用しての自己紹介でしたが、今日の後半は一転して生活の困窮の訴えです。そして「然諾 諸公に聞こゆ」と李皓りこうを持ち上げて、就職の陳情をします。
 最後の二句の冒頭「棣華」ていかというのは、『詩経』小雅・鹿鳴之什「常棣」じょうていの冒頭にある「常棣の華はな」のことです。
 この詩は兄弟愛の美しさを詠うもので、李白は『詩経』まで持ち出して任用を陳情していることになります。
 しかし、大県の県尉といっても上には県令も県丞もおり、新規採用を依頼されても、どうにもならないというのが実情だったでしょう。

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