君不見 君見ずや
将進酒 将進酒しょうしんしゅ 李白
君見ずや黄河の水は 天空より流れくだり
海に至って 二度ともどることはない
君見ずや高貴の人も 鏡に映る老いの悲しみ
朝には糸のような黒髪も 夕べには白髪となる
人生得意のときには 歓びを味わいつくすべし
金樽の美酒を 月夜に空しく放置するなかれ
天が私を生みだしたのは 役に立つところがあるからだ
千金の財産は 使いつくしてもまたもどってくる
羊を煮 牛を料理して ひとまずは楽しもう
飲むからには 一度に三百杯は飲むべきだ
雑言古詩(歌行)の大作「将進酒」も制作年のわからない作品ですが、名作といわれる一首をのがすわけにはいきませんので、ここに置きました。開元二十四年(七三六)の夏の終わりに李白は太原の人々に別れを告げ、南に下ります。途中、洛陽に立ち寄って秋には嵩山の元丹丘の山居で過ごしたようです。先輩格の知識人岑しんくんと知り合ったのも、そのころのことでしょう。次回の詩中に「岑夫子」しんふうしがでてきますが、岑夫子は岑とみられ、元丹丘もふくめた三人は意気投合して洛陽の酒肆しゅしで酒を酌み交わしました。
李白は太原で餞別や謝礼などを沢山もらっていて懐があたたかかであったらしく、意気盛んです。
岑先生よ 丹丘君よ
さあ飲み給え 杯の手を休めることなかれ
君らのために 一曲を歌おう
どうか私のために 耳を傾けて聴いてくれ
鐘や鼓 立派なご馳走も 有難がるほどのことはない
酔い心地がつづいて 醒めてほしくないだけだ
詩中の「岑夫子」については詩人の岑参しんじんという説もありますが、岑参は李白より十四歳も年少で、李白から「夫子」と尊称されるような立場にありません。岑参の従兄の岑徴君しんちょうくんとする説が有力で、「徴君」というのは朝廷に召されたが任官を断った人に与えられる尊称であり、李白が「岑夫子」と呼びかけるのにふさわしい知識人です。「丹丘生」はもちろん道士の元丹丘でしょう。李白が二人を招待して宴を張ったのは確実で、おおいばりで酒をすすめています。
ただ、この詩をよく見ると「岑夫子 丹丘生」の部分をほかの名前に変えると、どこにでも通用する仕掛けになっており、この点を批判する論者もいます。
昔から聖者も賢人も ひとり静かに消え去り
大酒飲みの男だけが その名を今にとどめている
陳思王曹植は 平楽観で宴うたげを催し
一斗で一万銭の美酒を飲んで 歓楽をつくした
主人たる私は 銭が足りないなど言い出しはしない
すぐさま買い足して 君らに酌つごう
五花の名馬 千金の皮衣
童子を呼び すべてを引き出して酒に換え
君らと共に 万古の愁いを消そうではないか
詩中で大酒飲みだけが、その名を今にとどめていると褒められている「陳王 昔時 平楽に宴し」というのは、三国魏ぎの陳思王ちんしおう曹植そうしょくのことで、曹植の詩に「名都篇」という作品があり、そのなかに「帰り来て平楽に宴す 美酒は斗十千」という詩句があるそうです。
「平楽」は魏の都洛陽(唐代の洛陽の東に廃墟が残っています)にあった「平楽観」という高殿のことですので、このことからも「将進酒」が洛陽で作られたと考えるひとつの傍証になるでしょう。李白のこの詩はすぐに有名になり、「五花馬
千金裘」は有り金をはたいて酒を買うことの比喩として詩文に用いられるようになりました。
「五花馬」の五花というのは馬のたてがみの装飾のことで、五つに束ねて切り揃え、花飾りのように化粧したようです。
「千金裘」は戦国斉の薛公孟嘗君田文が持っていたという白狐の毛皮の上衣のことで『史記』に出ています。