将進酒        将進酒しょうしんしゅ   李白
 君不見        君見ずや
 黄河之水天上来  黄河の水 天上より来きた
 奔流到海不復囘  奔流して海に到りて 復た囘かえらず
 君不見        君見ずや
 高堂明鏡悲白髪  高堂の明鏡めいきょう 白髪を悲しみ
 朝如青糸暮成雪  朝には青糸せいしの如く 暮には雪と成る
 人生得意須尽歓  人生 意を得て 須すべからく歓を尽すべし
 莫使金樽空対月  金樽(きんそん)をして空しく月に対せ使むる莫れ
 天生我材必有用  天 我が材ざいを生ず 必ず用いる有り
 千金散尽還復来  千金は散じ尽すも 還お復た来らん
 烹羊宰牛且為楽  羊を烹 牛を宰して (しばら)く楽しみを為さん
 会須一飲三百杯  会まさに須すべからく 一飲三百杯なるべし
君見ずや黄河の水は 天空より流れくだり
海に至って 二度ともどることはない
君見ずや高貴の人も 鏡に映る老いの悲しみ
朝には糸のような黒髪も 夕べには白髪となる
人生得意のときには 歓びを味わいつくすべし
金樽の美酒を 月夜に空しく放置するなかれ
天が私を生みだしたのは 役に立つところがあるからだ
千金の財産は 使いつくしてもまたもどってくる
羊を煮  牛を料理して ひとまずは楽しもう
飲むからには 一度に三百杯は飲むべきだ

 雑言古詩(歌行)の大作「将進酒」も制作年のわからない作品ですが、名作といわれる一首をのがすわけにはいきませんので、ここに置きました。開元二十四年(七三六)の夏の終わりに李白は太原の人々に別れを告げ、南に下ります。途中、洛陽に立ち寄って秋には嵩山の元丹丘の山居で過ごしたようです。先輩格の知識人岑しんくんと知り合ったのも、そのころのことでしょう。次回の詩中に「岑夫子」しんふうしがでてきますが、岑夫子は岑とみられ、元丹丘もふくめた三人は意気投合して洛陽の酒肆しゅしで酒を酌み交わしました。
 李白は太原で餞別や謝礼などを沢山もらっていて懐があたたかかであったらしく、意気盛んです。

 岑夫子  丹丘生  岑夫子しんふうし 丹丘生たんきゅうせい
 進酒君莫停      酒を進む 君停とどむること莫なか
 与君歌一曲      君が与ために一曲を歌わん
 請君為我傾耳聴  請う君 我が為に耳を傾けて聴け
 鐘鼓饌玉不足貴  鐘鼓 饌玉せんぎょくとうとぶに足らず
 但願長酔不用醒  ()だ願わくは長酔(ちょうすい)して 醒むるを用いず
岑先生よ 丹丘君よ
さあ飲み給え 杯の手を休めることなかれ
君らのために 一曲を歌おう
どうか私のために 耳を傾けて聴いてくれ
鐘や鼓 立派なご馳走も 有難がるほどのことはない
酔い心地がつづいて 醒めてほしくないだけだ

 詩中の「岑夫子」については詩人の岑参しんじんという説もありますが、岑参は李白より十四歳も年少で、李白から「夫子」と尊称されるような立場にありません。岑参の従兄の岑徴君しんちょうくんとする説が有力で、「徴君」というのは朝廷に召されたが任官を断った人に与えられる尊称であり、李白が「岑夫子」と呼びかけるのにふさわしい知識人です。「丹丘生」はもちろん道士の元丹丘でしょう。李白が二人を招待して宴を張ったのは確実で、おおいばりで酒をすすめています。
 ただ、この詩をよく見ると「岑夫子 丹丘生」の部分をほかの名前に変えると、どこにでも通用する仕掛けになっており、この点を批判する論者もいます。

 古来聖賢皆寂莫  古来 聖賢 皆みな寂莫じゃくばくたり
 唯有飲者留其名  唯だ飲者いんじゃの其の名を留とどむる有り
 陳王昔時宴平楽  陳王 昔時せきじ 平楽へいらくに宴えん
 斗酒十千恣歓謔  斗酒 十千 歓謔かんぎゃくを恣ほしいままにす
 主人何為言少銭  主人 何為なんすれぞ 銭ぜに少しと言わん
 経須沽取対君酌  (ただ)ちに須く()い取り 君に対して()ぐべし
 五花馬  千金裘  五花ごかの馬 千金の裘きゅう
 呼児将出換美酒  児を呼び 将き出いだして美酒に換え
 与爾同銷万古愁  爾なんじと同ともに銷さん 万古ばんこの愁い
昔から聖者も賢人も ひとり静かに消え去り
大酒飲みの男だけが その名を今にとどめている
陳思王曹植は 平楽観で宴うたげを催し
一斗で一万銭の美酒を飲んで 歓楽をつくした
主人たる私は 銭が足りないなど言い出しはしない
すぐさま買い足して 君らに酌ごう
五花の名馬 千金の皮衣
童子を呼び すべてを引き出して酒に換え
君らと共に 万古の愁いを消そうではないか

 詩中で大酒飲みだけが、その名を今にとどめていると褒められている「陳王 昔時 平楽に宴し」というのは、三国魏の陳思王ちんしおう曹植そうしょくのことで、曹植の詩に「名都篇」という作品があり、そのなかに「帰り来て平楽に宴す 美酒は斗十千」という詩句があるそうです。
 「平楽」は魏の都洛陽(唐代の洛陽の東に廃墟が残っています)にあった「平楽観」という高殿のことですので、このことからも「将進酒」が洛陽で作られたと考えるひとつの傍証になるでしょう。李白のこの詩はすぐに有名になり、「五花馬 千金裘」は有り金をはたいて酒を買うことの比喩として詩文に用いられるようになりました。
 「五花馬」の五花というのは馬のたてがみの装飾のことで、五つに束ねて切り揃え、花飾りのように化粧したようです。
 「千金裘」は戦国斉の薛公孟嘗君田文が持っていたという白狐の毛皮の上衣のことで『史記』に出ています。

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