安陸白兆山桃花巌寄劉侍御綰 李 白
          安陸の白兆山桃花巌にて劉侍御綰に寄す
雲臥三十年    雲臥うんがすること三十年
好閑復愛仙    閑かんを好み復た仙せんを愛す
蓬壷雖冥絶    蓬壷ほうこ 冥絶めいぜつすと雖も
鸞鳳心悠然    鸞鳳らんほうこころ悠然たり
帰来桃花巌    帰り来る桃花巌とうかがん
得憩雲窻眠    雲窻うんそうに憩いこうて眠るを得たり
対嶺人共語    嶺みねに対むかって人は共に語り
飲潭猿相連    潭ふちに飲んで猿は相い連なる
時昇翠微上    時に翠微すいびの上に昇のぼれば
邈若羅浮巓    邈ばくとして羅浮ふらの巓いただきの若ごと
白雲の間に遍歴して いまや三十歳
私は閑暇を好み神仙を愛する
蓬萊山は絶海の果て 及びもつかないが
心は鸞鳳のように悠然としている
いま 桃花巌に帰りつき
雲の湧く窓辺で眠ることができた
人は山を相手に語り合い
猿は手をつなぎ合って淵の水を飲む
時として 山頂の近くに登れば
漠として 羅浮山のいただきにいる気がする

 都への旅から帰宅して間もない冬に、洛陽の元演が安陸を訪ねてきました。太原はこのころ、三府のひとつとして唐の重要な城市でしたので、太原太守は高官でした。その息子が訪ねてきたということは、李白にとっていくらか旅の成果を誇れることになります。
 安陸から北へ溳水うんすいを六〇㌔㍍ほど遡ったところに随州(湖北省随県)という古い街がありますが、李白と元演は連れ立って随州に遊び年末に帰宅しています。その翌年、開元二十一年(七三三)に李白は安陸の県城から西に一五㌔㍍ほどのところにある許家の荘園、白兆山はくちょうさんの桃花巌とうかがんに新居をかまえ、そこから劉綰りゅうえんあてに謝礼の詩を贈っています。劉綰は御史台の侍御史(従六品上)で官を辞し、随州に隠退していたのでしょう。随州に遊んだとき世話になったので、李白はお礼の詩を送り、近况を知らせたものと考えます。
 李白は「雲臥すること三十年」と書いていますが、この年、三十三歳になっていますので、概算で言ったものでしょう。
 李白は桃花巌の仙境にも似た風物を描いて、現状を述べていますが、果たして満足しているのでしょうか。

両岑抱東壑    両岑りょうしん 東壑とうがくを抱いだ
一嶂横西天    一嶂いつしょう 西天せいてんを横よこぎる
樹雑日易隠    樹まじって 日 隠れ易やす
崖傾月難円    崖がけ 傾いて 月 円まどかなり難し
芳草換野色    芳草ほうそう 野色やしょくを換
飛蘿揺春煙    飛蘿ひら 春煙しゅんえんを揺るがす
入遠構石室    遠きに入りて石室せきしつを構え
選幽開山田    幽ふかきを選んで山田さんでんを開く
独此林下意    独り此の林下りんかの意のみ
杳無区中縁    杳ようとして区中くちゅうの縁えん無し
永辞霜台客    永く辞す霜台そうだいの客
千載方来旋    千載せんざいまさに来きたり旋めぐらん
二つの峰が東の谷を抱いてそそり立ち
屏風のような山が西の空を横切っている
樹々は茂り合って日陰になりやすく
崖は急で 満月の形も見えにくい
野草はいろづいて 野の色を変え
飛蘿ひかげかずらはゆらめいて 春霞のようだ
遠く山中に分け入って岩屋をかまえ
奥深い場所を選んで山田をひらく
ひとり山中の情があるのみで
世間との縁はすっかり切れてしまった
侍御史の客となって永の暇を告げ
また参上できるのは いつの日だろうか

 李白はこの年いっぱい桃花巌で晴耕雨読の生活を送り、秋には長女平陽が生まれたと推定されます。平陽は許氏所生の第一子です。
 しかし、一年もたつと李白は桃花巌の生活に飽いてきます。
 飽いてきたというよりも、桃花巌に引き籠っていたのでは官途からも詩名からも縁遠くなってしまうのです。
 李白は開元二十二年(七三四)の春になると襄陽に出て行って、そのころ後進を引き立てることで人望のあった荊州長史の韓朝宗や襄陽県尉の李皓といった人々に面会を求め、就職への援助を要請しますが、事は思うように運びませんでした。
 そのころの作品と思われる「襄陽歌」は三十四句の雑言古詩の大作ですが、飮酒を礼賛しています。李白は三月まで襄陽に滞在したあと、暮春には漢水をくだって江夏にゆき、秋の終わりまで江夏やその周辺を遊歴して、冬になってから桃花巌に帰ってきました。

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