我浮黄河去京関 我 黄河に浮かんで京関きょうかんを去り
粱園吟 粱園の吟 李 白
私は黄河に浮かんで都を去る
帆をあげて進もうとするが 波は山のように連なってくる
天は遠く 水は広々として 遥かな旅にあきあきしつつ
古跡を訪ねて はじめてやってきた平台のあたり
平台にとどまって 思いわずらうことも多く
酒にうさを晴らしながら 粱園の歌を作る
かえりみて思うのは 阮籍の蓬池詠懐の詩
そこで清らかな池に 大波が立つのを詠う
波は古い都の地に ゆらゆらと揺らめき迷い
道は遠くへだたり 西のかた都に帰るすべもない
春が過ぎると、李白は長安を離れて宋州(河南省商丘市)に行ったようです。なぜ宋州に行ったのか理由はわかりませんが、誰か招待する人がいたのでしょう。「粱園吟」は宋州で作った全三十五句の歌行(雑言古詩)ですが、この時期の李白の気分をよく伝えているようです。はじめの十句は序章の部分で、黄河を下って宋州に着きます。
黄河を下るといっても、黄河をゆくのは少しで、すぐに運河に入るのですが、都落ちの李白の心境は複雑のようです。
前十句の結びは「路遠くして 西帰 安んぞ得可けんや」となっていて、都に帰るすべもないと嘆いています。
人生天命に達すれば 愁い哀しむ暇いとまはなく
まずは高楼に登って おいしい酒を飲むのだ
召し使いのしもべが 大きなうちわで扇ぐと
夏の暑さも忘れて 秋が来たかと思われる
大皿に盛った山桃は 君のために準備した
呉の塩は花のように美しく 雪よりも白い
塩をつまんで酒を酌み たっぷり飲もう
伯夷・叔斉の高潔など 真似る必要はないのだ
「人生 命に達すれば」は、人生こうなったら致し方ないといった意味でしょう。李白は大いにはめをはずして酒を飲みます。当時は楊梅やまももに呉の塩をつけて酒の肴とするのは一種の贅沢だったのでしょうか。
「夷斉」というのは『史記』列伝の冒頭にある伯夷はくい・叔斉しゅくせいのことで、有名な話ですのでご存じと思いますが、周のはじめ武王が殷を討とうとしたとき、伯夷と叔斉が諫めます。
しかし、聞き入れられなかったので伯夷と叔斉は首陽山に隠れ、周の粟をはまず、餓死してしまいます。古来、義人とされていますが、そんなことは「学ぶ莫かれ」というわけです。
昔の人は 信陵君を勇気ある貴人と仰いでいたが
今の人は 信陵君の墓を耕し 種をまいている
山上の月が 荒れた城を虚しく照らし
聖山の雲が 古木の林を包みこむ
粱王の宮殿は いまどこに在るというのか
枚乗も司馬相如も死んで 私を待ってはくれない
舞姫の影も歌い女 の声も 清らかな池に散り果て
汴水だけが 東のかた海に空しく流れている
戦国魏の公子信陵君しんりょうくんの墓も、いまは畑になっている。
栄華を誇った漢の粱王りょうおうの宮殿も、いまは荒れ果てている。
粱王から招かれた枚乗ばいじょうや司馬相如しばそうじょのような詩人たちも死んでしまい、汴水だけが、東のかた海に空しく流れていると、李白は世のはかないことを嘆きます。
栄華の跡を深く思えば 涙は衣ころもを潤し
酒を買い求めては酔い 帰ることができない
五白の遊びや六博の賭けごとに興じ
二組に分かれて酒を賭け 過ぎゆく時の間に酔いしれる
過ぎゆく時の間に酔いしれて
歌いかつ吟唱すれば
心はまさに遠くへ飛んでいく
東山に隠れ棲んで 時が来れば起ち上がるのだ
民草を救おうとするこの心 遅すぎることはないはずだ
「粱園」も「平台」も漢の文帝の子、粱の孝王劉武が築いた庭園と楼台ですが、宋城の郊外の別々の場所にあったようです。
そうした栄華のはかなさを思うと涙が流れ、酒を飲んで五白や六博の賭けごとに興じ、時間のたつのも忘れると、最後に三語の同句を繰り返し、三語の句を三つ並べて感情を強調しています。
ここらが李白の詩の自由闊達なところでしょう。
結びの二句に隠棲の志と、時が来れば起ち上がって「蒼生を済わん」と意気さかんなところを見せますが、これはつけたしのようです。