玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首(録一) 李 白
  玉真公主の別館に雨に苦しみ衛尉張卿に贈る 二首(一を録す)
苦雨思白日    苦雨くう 白日はくじつを思う
浮雲何由巻    浮雲ふうん 何に由ってか巻かん
稷契和天人    稷しょくせつ 天人てんじんを和し
陰陽仍驕蹇    陰陽 仍お驕蹇きょうけんたり
秋霖劇倒井    秋霖しゅうりんはげしく井を倒さかしまにし
昏霧横絶巘    昏霧こんむ 絶巘ぜつけんに横たわる
欲往咫尺塗    咫尺しせきの塗みちを往かんと欲するも
遂成山川限    遂に山川さんせんの限りを成
連日の雨 太陽を恋しく思うが
空の雲を どうして除き去ることができようか
后稷や契の時代は 天と地が和していたが
いまは陰陽が 勝手気ままに振る舞っている
秋の長雨は 土砂降りの豪雨となり
厚い雲が 険しい峰を覆っている
わずかな道を歩こうと思っても
つまりは 山川に隔てられてしまうのだ

 李白は都の詩人や貴顕と交わりながら、いろいろな詩作の技を見せ、文名による官への採用をめざしますが、事は思うように進みません。頼りにしていた宰相の張説ちょうえつはすでに老齢であり、無名の詩人の相手を息子の衛尉(従三品、衛尉寺の長官)にまかせます。
 当時、都の高官を頼って上京してくる文人の数は多く、それ自体は高官の側も世評が高いことのあかしとして歓迎すべきことでした。
 しかし、無一文で上京してくる文人の滞在費など、世話に要する費用もばかになりません。張説の息子(張キ)は李白の宿として、終南山の麓にあった玉真公主の古い別荘を世話しますが、その家は都城から離れている上に廃屋に近いぼろ家でした。
 秋も終りに近づくと、李白は堪忍袋の緒を切らしてしまいます。
 李白は詩で、官への斡旋がうまく進まないことをまず嘆きます。

潨潨奔溜瀉    潨潨そうそうとして奔溜ほんりゅうそそ
浩浩驚波転    浩浩こうこうとして驚波きょうは転ず
泥沙塞中途    泥沙でいさ 中途を塞ふさ
牛馬不可辨    牛馬ぎゅうばべんず可からず
飢従漂母食    飢えて漂母ひょうぼに従って食し
閑綴羽林簡    閑かんに綴る 羽林うりんの簡かん
園家逢秋蔬    園家えんか 秋蔬しゅうそに逢うに
藜藿不満眼    藜藿けいかくに満たず
蠨蛸結思幽    蠨蛸しょうしょう 思幽しゆうを結び
蟋蟀傷褊浅    蟋蟀しつしゅつ 褊浅へんせんを傷いた
ごうごうと水は溢れて降りそそぎ
大波となって寄せてくる
泥水は行く手をふさぎ
牛か馬かの見分けもつかない
飢えては 貧しい婦人から食をもらい
暇にまかせて虫食いの本をいじっている
農家では 秋野菜を摘む季節だが
わが家では藜あかざや豆の葉っぱもない
蜘蛛は 網の上でふさぎこみ
こうろぎは 狭い居場所を嘆いている

 全二十八句のこの五言詩は、李白の真骨頂をかいま見させるものです。いったん憤りを発すると、言語は土砂降りの雨のように降り注ぎ、とどまるところを知りません。
 おりから秋の長雨が降っていたのでしょう。
 前回の後半四句と今回のはじめ四句の八句で雨の様子が描かれ、一転して詩は貧苦の訴えに変わります。「漂母」は絮まわたを晒す婦人のことで、漢の韓信が貧困であったころ、故郷の淮陰わいいんの城下で漂母に食を恵んでもらった『史記』の故事を引き合いに出しています。
 出世をしたら恩はかならず返すという意味でしょう。
 そうした志はあるのに、自分は虫食いの本を読み、農家では秋野菜の収穫期であるのに、わが家には豆の葉っぱもないというのです。
 蜘蛛やこうろぎは家に閉じ込められている李白自身の姿でしょう。
 玉真公主別館の古びた様子でもあります。

厨竃無青烟    厨竃ちゅうそう 青烟せいえん無く
刀机生緑蘚    刀机とうき 緑蘚りょくせんを生ず
投筋解鷫霜    筋はし投じて鷫霜しゅくそうを解
換酒酔北堂    酒に換えて北堂ほくどうに酔う
丹徒布衣者    丹徒たんと布衣ふいの者
慷慨未可量    慷慨こうがい 未だ量はかる可からず
何時黄金盤    何いずれの時か 黄金の盤ばん
一斛薦檳榔    一斛いっこくの檳榔びんろうを薦すすめん
功成払衣去    功こうらば衣を払って去り
揺裔滄洲傍    滄洲そうしゅうの傍かたわらに揺裔ようえいせん
竃には 煙も絶え
庖丁やまないたには 青黴が生えている
箸を投げ出し 皮の衣ころもを質に入れ
酒に変えて 奥座敷で酔う
丹徒の劉穆之が無冠のとき
はかり知れない屈辱を受けた
いつになったら黄金の大皿に
一斛の檳榔を盛り 出せる身分になれるのか
功業が成れば 塵を払って官途を去り
滄洲のあたりで のんびり暮したいものだ

 貧苦の誇張した表現は、庖丁やまないたに青黴が生えていることにまで及びます。「丹徒布衣」は南朝宋の劉穆之りゅうぼくしのことで、劉穆之が丹徒たんと(江蘇省鎮江市)に住んで無冠(無位)であったころ、妻の兄の家に行って飲食をし侮辱を受けます。
 のちに宋の武帝に仕えて丹陽(江蘇省丹陽県)の尹(長官)になったとき、妻の兄弟を招いてご馳走し、最後に檳榔一斛を金の皿に盛って供し、かつての屈辱を晴らしたという故事です。
 李白はこうした話を援用して、官に就くことを希望しているのであって、最後の隠遁の志はつけたしに過ぎません。
 それにしても、このような激しい詩をぶつけられたのでは、世話をしている張説の息子もたまったものではないでしょう。
 なお、「鷫霜しゅくそう」の霜は原文は霜偏に鳥の字ですが外字になりますので「霜」で代用しました。

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