子夜呉歌 其一 春 子夜呉歌しやごか 其の一 春  李白
秦地羅敷女    秦地しんちの羅敷女らふじょ
採桑緑水辺    桑を採る 緑水りょくすいの辺ほとり
素手青条上    素手そしゅ 青条せいじょうの上
紅粧白日鮮    紅粧こうしょう 白日はくじつに鮮やかなり
蚕飢妾欲去    蚕かいこは飢えて妾しょうは去らんと欲す
五馬莫留連    五馬ごば 留連りゅうれんする莫なか
秦の美女 羅敷のような娘が
桑を摘む 清らかな川のほとり
白い手は 緑の枝に伸び
ほほ紅が 光に映えて鮮やかだ
蚕に餌をやるころです 私は失礼しますので
太守さま さっさとお帰り下さいませ

 「子夜呉歌」も楽府題がふだいですが、詩の内容と題名とは関係がありません。五言六句の珍しい詩を、春夏秋冬の四季に配して四首の組み歌にしています。春の「羅敷女」は漢代の楽府に出てくる美女の名で、古辞では邯鄲かんたんの秦氏の女むすめとなっています。
 李白はそれを「秦」(長安を雅して言ったもの)の農家の娘に変え、言い寄る「五馬」をそでにする話にしています。
 五馬とは五頭立ての馬車に乗ることが許されている州刺史しゅうししまたは郡太守ぐんたいしゅのことです。漢代の郡は県の上に位置する行政機関で、唐代には州と呼ばれるようになります。
 県は日本の市や町にあたります。
 なお、唐の長安の都は広大でしたので、城内の南の部分には農地もあり、農家や高官の別荘などが点在していたと言われています。だから郊外でのことではなく、城内と考えて差し支えないと思います。


子夜呉歌 其二 夏 子夜呉歌しやごか 其の二 夏 李 白
鏡湖三百里    鏡湖きょうこ 三百里
函萏発荷花    函萏かんたん 荷花かかを発ひら
五月西施採    五月 西施せいしが採るや
人看隘若耶    人は看て若耶じゃくやを隘せまくす
囘舟不待月    舟を囘めぐらして月を待たず
帰去越王家    帰り去る 越王えつおうの家
鏡湖は周囲三百里
蓮のつぼみが花ひらく
五月になって 西施が花を摘めば
見物人で 若耶渓も狭くなる
舟をめぐらせ 月の出を待たずに
西施は 越王の御殿へ帰ってゆく

 夏は一転して越の美女西施の話です。
 女性であるという以外に春との共通点はありません。
 「西施」についてはすでに触れましたが、中国の伝説的な美女ですので、ご存じの方は多いでしょう。秦の美女、越の美女と、美女の話がつづきますが、秋・冬は別の話になります。


子夜呉歌 其三 秋 子夜呉歌しやごか 其の三 秋 李 白
長安一片月    長安 一片の月
万戸擣衣声    万戸 衣を擣つの声
秋風吹不尽    秋風しゅうふう 吹いて尽きず
総是玉関情    総て是れ玉関ぎょくかんの情
何日平胡虜    何いずれの日か胡虜こりょを平らげ
良人罷遠征    良人りょうじん 遠征を罷めん
長安の空に 一片の月
聞こえてくるのは 万戸砧きぬたを擣つの声
秋風あきかぜは 吹いてやまず
おもいはすべて 玉門関のかなたへ飛ぶ
良人おっとよ いつになったら胡虜を平らげ
遠征をやめてもどってくるのか

 この詩は、李白詩のなかでも日本人の人口に膾炙している作品のひとつです。詩が組み詩のひとつだと知れば、がっかりなさる方がいるかもしれません。李白は兵士の妻の閨怨を詠っていますが、だからといって李白が特に反戦思想の持ち主であったわけではありません。
 宮女の「玉階怨」に対して庶民の閨怨詩を作ったのでしょう。なお、「擣」はつと読むのが訓読の伝統ですが、「擣」はくと読む字です。
 実際にも砧は臼にいれた布を杵(棒杵)でつくようすが唐代の絵に残っています。板とか平たい石の上で敲くのではありませんので、情景を想像するときに注意してください。砧でつくのは洗濯ではなく、冬用の厚いごわごわした布を柔軟にするためにするもののようです。


子夜呉歌 其四 冬 子夜呉歌しやごか 其の四 冬 李 白
明朝駅使発    明朝みょうちょう 駅使えきし発す
一夜絮征袍    一夜にして征袍せいほうに絮じょせん
素手抽針冷    素手そしゅ 針を抽けば冷たく
那堪把剪刀    那なんぞ 剪刀せんとうを把るに堪えん
裁縫寄遠道    裁縫して遠道えんどうに寄す
幾日到臨洮    幾いずれの日か 臨洮りんとうに到らん
明日の朝には 駅亭の使者が発つ
今夜のうちに 綿入りの軍服に仕立てよう
白い手で針を運べば 指はこごえ
はさみを使うのは もっとつらい
縫いあげて 遠いかなたに送ります
幾日たてば 臨洮に着くのだろうか

 「冬」は「秋」のつづきの詩になります。
 「秋」が幻想的になっている分、「冬」は極めて現実的です。
 明日の朝に駅亭の使者が発つので、それに託するため、今夜中に冬用の軍服を仕立て上げなければならないと、妻はこごえる手をこすりながら針を運んでいます。なお、唐初の兵は庶民から徴兵される定めですが、服などの壮備は本人負担であったようです。
 「臨洮」は甘粛省にありますので、さほど遠くはありません。
 広く西方の駐屯地の意味で用いているのでしょう。

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