黄鶴楼送孟浩然之広陵
            黄鶴楼 孟浩然の広陵に之くを送る 李 白


 故人西辞黄鶴楼    故人 西のかた黄鶴楼こうかくろうを辞し
 烟花三月下揚州    烟花えんか 三月 揚州ようしゅうに下る
 孤帆遠影碧空尽    孤帆こはんの遠影 碧空へきくうに尽き
 唯見長江天際流    唯だ見る 長江の天際てんさいに流るるを
友よ 西のかた 黄鶴楼をあとにして
花がすみの三月 揚州へくだる
孤舟の帆影は 遠くの碧空そらに消え
見えるのは天空のはてまでつづく長江たいがの流れ

 安陸での生活をはじめた翌年、開元十五年(七二七)の早春、李白は溳水うんすいを舟で下って江夏こうかに行きました。
 孟浩然が江夏に遊ぶという噂を聞いて出かけたのでしょう。
 鄂州がくしゅうの州治のある江夏は大きな街ですので、李白は孟浩然を通じて多くの詩人と知り合いになったと思います。
 三月になると孟浩然が揚州に行くことになり、他の詩人たちといっしょに黄鶴楼に宴し、孟浩然を見送りました。
 そのときの送別の詩は李白絶句の名作として欠かすことのできないものになっています。制作年は不明ですが、ここに置きました。
 「広陵」こうりょうは揚州の古名で、李白がつい先ごろ病気で苦しんだ街です。しかし、それは秋のことで、揚州の春は経験していません。
 李白は花がすみの揚州をあこがれ一杯に描くことで孟浩然の旅立ちを祝し、あわせて長江の悠久の流れについて余すところなく描いていますが、それは孟浩然の舟が出ていったあとの情景ですから、極めて創作的な詩ということになります。


 登太白峯      太白峰に登る   李 白
西上太白峯    西のかた太白峰たいはくほうに上り
夕陽窮登攀    夕陽せきよう 登攀とうはんを窮きわ
太白与我語    太白 我われと語り
為我開天関    我が為に天関てんかんを開く
願乗泠風去    願わくは 泠風れいふうに乗って去り
直出浮雲間    直ただちに浮雲ふうんの間を出でん
挙手可近月    手を挙げれば月に近づく可く
前行若無山    前に行けば山無きが若ごとからん
一別武功去    一たび武功ぶこうと別れて去らば
何時復更還    何いずれの時か 復た更に還かえらん
西のかた太白峰に登って
夕陽が傾くころ 山頂を窮めた
太白星は 私に語りかけ
私のために 天空の門を開いてくれる
爽やかな風に乗り
雲のあいだを抜けてゆきたい
手を挙げれば 月に近づき
前にすすめば 遮るものも無いかのように
ひとたび 武功の地を去れば
いつまた 帰ってこれるだろうか

 李白は開元十五年(七二七)の暮れか翌年の春に安陸の許家の(むすめ)と結婚しました。二十七歳の冬か二十八歳の春です。
 許家は安陸の名家で、高宗のときに宰相を出しています。李白が娶ったのは宰相になった許圉師きょぎょしの孫か曾孫であったらしく、落ち目になっているとはいえ、漂泊の無名詩人に過ぎない李白が、許氏のような名家の女と正式に結ばれたのはひとつの謎とされています。
 李白は新妻を迎えて、しばらくは新婚生活を楽しんだでしょう。
 しかし無職の詩人では名家の婿としての体面が保てません。
 地元の安州長史(州次官)に就職の斡旋を頼んだりしていますが、事はうまく運びませんでした。結婚後二年あまり、李白は安陸にいましたが、開元十八年(七三〇)の初夏に安陸を発って長安に向かいました。そのころ孟浩然も長安にいて王維らと交流していましたので、都で文名を挙げたいと思ったのでしょう。
 李白が太白山に登ったのは、都に出てほどなくのことと思われます。
 李白は字あざなを太白といいますので、この山に自分の運命のようなものを感じ、感情移入をしています。このころの李白は都での成功に限りない希望と期待を抱いていたことがわかります。

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