淮南臥病書懐寄蜀中趙徴君蕤 李 白
    淮南 病に臥し懐いを書して蜀中の趙徴君蕤に寄す
呉会一浮雲    呉会ごかいの一浮雲いちふうん
飄如遠行客    飄ひょうとして遠行えんこうの客の如し
功業莫従就    功業 従就じゅうしゅうする莫
歳光屡奔迫    歳光 屢々しばしば奔迫ほんはく
良図俄棄損    良図 俄にわかに棄損きえん
衰疾乃綿劇    衰疾 乃すなはち綿劇めんげき
呉越のあたり ひとひらの浮雲うきぐも
飄然と 遠くへ旅する旅人のようだ
功業を 成し遂げることもなく
歳月は あわただしく過ぎてゆく
折角の壮図も にわかに棄て去り
疾のために 身は衰え果てている

 この年の秋、二十六歳の李白は揚州(江蘇省揚州市)に来ていました。呉越の地から舟を北へもどし、長江を北へ渡って淮南わいなんの地に来たことになります。揚州はそのころ都長安にも劣らない繁華な街として海外からの船の出入りも多く、交易の港として繁栄の途上にありました。若い李白は揚州の街を大いに楽しんだと思いますが、ここで疾やまいに見舞われます。
 蜀を出るときに持ってきた金も残り少なくなっていました。
 さすがの李白も気が弱くなって、故郷に書を送っています。
 詩を送った相手の趙蕤ちょうずいは蜀中時代の兄貴分ともいえる知識人で、李白が十九歳のころ蜀中を遊歴していたときに知り合い、三年ほど岷山みんさんの一峰匡山きょうさんに籠もって山林の生活を共にしたこともありました。趙蕤は縦横家しょうおうかといった人物で、李白に治乱興亡の史書や兵法を教え、共に天下国家を論じた仲でした。
 題中で李白は、趙蕤を「徴君」ちょうくんと呼んでいますが、これは名前ではなく、朝廷に召されたが任官を断った人を呼ぶときの尊称です。

古琴蔵虚匣    古琴 虚匣きょこうに蔵し
長剣挂空壁    長剣 空壁くうへきに挂
楚懐奏鐘儀    楚懐そかい 鐘儀しょうぎ奏し
越吟比荘舃    越吟えつぎん 荘舃そうせきに比す
国門遥天外    国門こくもん 遥天ようてんの外そと
郷路遠山隔    郷路きょうろ 遠山えんざんへだ
朝憶相如台    朝あしたには相如そうじょの台を憶おも
夜夢子雲宅    夜には子雲しうんの宅たくを夢む
旅情初結緝    旅情 初めて結緝けつしゅう
秋気方寂歴    秋気 方まさに寂歴せきれきたり
愛する琴は 箱に納め
長剣も 壁に虚しくかけてある
鐘儀が 楚国の曲を奏で
荘舃が越の詩を吟じたように 故郷への想いはつのる
故国の城門は 遥かな空のかなたにあり
郷里への道は 遠くの山に隔てられている
朝には 司馬相如の琴台きんだいを憶い
夜には 揚雄の邸を夢にみる
旅情は 胸にこみあげ
秋のけはいは もの寂しく満ちわたる

 病の床で、李白は故郷への想いをつづります。
 「鐘儀」というのは春秋楚の楽人で、晋しんに捕らえられ晋君が琴を弾かせると、楚の曲を奏して望国の想いを訴えました。
 「荘舃」は春秋越の生まれですが、長じて楚に仕え、病気になると故郷が恋しくなって越の歌を口ずさんだといいます。
 これらは『春秋左氏伝』と『史記』に出てくる挿話で、李白の頭の中には古典のこまかな部分も記憶されていたのです。
 「司馬相如」しばそうじょと「揚雄」ようゆう(字は子雲)は蜀が生んだ漢代の文人で、蜀にいたころに訪れた司馬相如の琴台や揚雄の邸の跡などを思い出し、旅情が胸にこみあげてくるのです。

風入松下清    風は松下しょうかに入りて清く
露出草間白    露は草間そうかんを出でて白し
故人不在此    故人 此ここに在らず
而我誰与適    而しかるに我れ誰と与ともにか適せん
寄書西飛鴻    書を西飛せいひの鴻こうに寄せ
贈爾慰離析    爾なんじに贈って離析りせきを慰む
清らかな風が 松の林を吹き抜け
くさむらは 露に濡れて白くかがやく
ここには語り合うべき友もなく
私は誰と過ごしたらいいのだろうか
西に飛ぶ鴻かりに託して書を送り
いささか別離の淋しさを慰めるのだ

 李白は二十二句の五言古詩を故郷に送りますが、冬になって病が癒えると揚州を離れ、洛陽に近い汝州(河南省臨汝県)まで行って短期間滞在し、それから安州(湖北省安陸県)に至っています。
 李白が病後の身でなぜ汝州のような遠いところまで行ったのかよくわかりません。
 理由として考えられるのは、何か官途に結びつくような情報を耳にして出かけていったけれど、物にならなかったのでしょう。
 安州に行った理由については、少年のころに読んだ司馬相如の「子虚の賦」に雲夢沢うんぼうたくのことが出ていて、その壮大な景観に憬れていたからだと李白自身が書いています。
 雲夢沢は湖北と湖南にまたがって広がっていた古代の沼沢で、安州の州治のある安陸は沼沢の北に臨む古い城市でした。

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