斉安郡晩秋       斉安郡の晩秋 杜牧

   柳岸風来影漸疎  柳岸りゅうがん 風来たりて 影かげ漸く疎まばらなり
   使君家似野人居  使君しくんの家は似たり 野人やじんの居きょ
   雲容水態還堪賞  雲容うんよう水態すいたいた賞するに堪え
   嘯志歌懐亦自如  嘯志しょうし歌懐かかい 亦た自如じじょたり
   雨暗残灯棊散後  雨は暗し 残灯ざんとう散ずるの後のち
   酒醒孤枕雁来初  酒は醒む 孤枕こちんがん来たるの初はじ
   可憐赤壁争雄渡  憐れむ可し 赤壁せきへきゆうを争いし渡し
   唯有蓑翁坐釣魚  唯だ蓑翁さおうの 坐そぞろに魚うおを釣る有り
岸の柳に秋の風 葉陰もようやく疎らになり
黄州の刺史の官舎も 農家のように静かになる
雲の形や水のさまは まだ充分に美しく
歌を嘯くこころざし 以前とすこしも変わらない
夜に降る雨 残灯よ 囲碁も終わって酔いも醒め
孤独に沈む枕の上を 初雁が淋しく飛んでゆく
憶いは尽きぬ赤壁の渡 覇を競った英雄の地に
蓑笠の翁がただひとり 閑かに糸をたれている

 秋になって閏七月、従兄の淮南節度使・検校尚書右僕射駙馬都尉の杜悰とそうが、尚書右僕射兼中書侍郎・同中書門下平章事になって都に復帰しました。宰相になったわけですが、杜牧の気持ちは複雑です。
 杜牧は天子の女婿である従兄の出世が妬ましく、わが身の不遇を不当なものと思うのでした。
 昭義軍節度使劉稹りゅうしんが誅されたのは、八月になってからでした。
 李徳裕はその功を賞されて守太尉趙国公に封ぜられ、さらに衛国公に進みます。それに対して東都留守であった牛僧孺や李宗閔は嶺南道広東省の州長史や州司馬に貶謫されます。
 牛党はすっかり凋落し、いまや李党が全盛を謳歌しています。
 杜牧は党派から一歩距離を置いていましたが、「中書門下の沢潞を平ぐるを賀する啓」を送って、李徳裕の功績を称えています。
 一方、北方の情勢は不安定のまま推移し、回鶻ウイグルにかわって草原の支配者になった黠戛斯キルギスとの間に、辺境問題が生じていました。
 杜牧は「李太尉に上りて北辺事を論ずる啓」を李徳裕に送って、まず弱体化した回鶻を討滅してしまうのがよいと意見を述べます。
 しかし、都からは何も言ってきません。黄州に秋が深まるだけでした。
 詩題の「斉安郡」せいあんぐんが黄州の郡名であることは先に述べました。
 杜牧は詩人としての志は以前と少しも変わらないといいますが、打ち捨てられたように仕事もなく孤独です。
 赤壁を舟で訪れ、周瑜の英雄的な戦に思いを馳せながらも、老漁夫が閑雅に釣り糸を垂れている姿に目をやります。
 「唯だ蓑翁の 坐ろに魚を釣る有り」は、柳宗元の「江雪」前出参照を思わせる詩句で、杜牧は流謫者のような心境です。


  贈漁父          漁父に贈る 杜牧

芦花深沢静垂綸   芦花ろか 深沢しんたく 静かに綸いとを垂る
月夕煙朝幾十春   月夕げつせき 煙朝えんちょう 幾十春いくじっしゅん
自説孤舟寒水畔   自ら説く 孤舟こしゅう 寒水の畔ほとり
不曾逢着独醒人   曾かつて独醒どくせいの人に逢着ほうちゃくせずと
奥深い沼 花咲く芦 漁父は静かに糸をたれ
月の出る夜 靄の朝 幾歳月は過ぎ去った
ふと洩らす独り言 淋しく舟は水面をわたり
屈原のような独醒人に 一度も逢ったことがない

 詩題の「漁父」ぎょほは屈原の作と伝えられる楚辞の題で、釣り糸を垂れる老漁父は杜牧自身の姿でもあるでしょう。その漁父にわが身を重ね合わせ、屈原のような憂国の士に会ったことがないと、杜牧はつぶやくのでした。


    題斉安城楼       斉安の城楼に題す 杜牧

  嗚軋江楼角一声  嗚軋おあつたり 江楼こうろうの角一声かくいっせい
  微陽瀲瀲落寒汀  微陽びよう瀲瀲れんれんとして 寒汀かんていに落つ
  不用憑欄苦廻首  用いず (らん)()りて (ねんご)ろに(こうべ)を廻らすを
  故郷七十五長亭  故郷は 七十五長亭しちじゅうごちょうてい
岸辺の城楼に 角笛は高く鳴りひびき
秋の日差しは わびしく川面にゆれ動く
欄干に寄って 首をめぐらすのはむだなこと
故郷は二千三百里 遥か遠くにへだたっている

 事もなく過ぎてゆく秋の日です。刻を告げる角笛が一声高く鳴り響いて、川面に秋の日差しが揺れています。杜牧は城楼の勾欄に寄りかかって川面を眺めていますが、首をめぐらす必要はないといいます。
 都を懐かしく思うことはあっても、故郷は遥かに遠いところにあります。
 朝廷から見捨てられたような淋しい日々です。
 なお、「七十五長亭」は駅亭を七十五箇所過ぎる距離ということで、唐代の里一里は約五六〇㍍で二千三百里にあたります。


    斉安郡中偶題      斉安郡中にて偶たま題す 杜牧

   秋声無不撹離心  秋声しゅせい 離心りしんを撹みださざる無く
   夢沢蒹葭楚雨深  夢沢ぼうたくの蒹葭けんかに 楚雨そう深し
   自滴階前大梧葉  自おのずから滴る 階前かいぜんの大梧葉だいごよう
   干君何事動哀吟  君の何事にか干かかわりて 哀吟あいぎんを動かせる
秋の近づく足音は すべて異郷の悲しみとなり
雲夢沢の萱草に 雨は激しく降りそそぐ
中庭の桐の大葉も 声をあげて泣き
雨は哀しく歌いつづけ なぜに私を苦しめるのか

 詩中の「夢沢」は長江中流の楚地にひろがっていた沼沢で、雲沢は江北にあり、夢沢は江南にあったという説と雲沢・夢沢ともに江北にあったという説があります。ふたつ合わせて雲夢沢うんぼうたくといいますが、古代にあった沼沢の名を借りたものです。
 杜牧は秋が深まるとともに諦めと憤りの心情を詠うようになりますが、そこに届いたのが池州安徽省貴池市への転勤辞令でした。池州は長江右岸南岸にあり、黄州から江州まで東南に二百五十里約百四十㌔㍍ほど下り、つづいて池州まで東北に三百里約百七十㌔㍍ほど下った下流になります。都にもどることを期待していた杜牧にとって、この異動は不本意なものでした。
 宰相になった杜悰は、一族の者のためになんの役にも立たないのかと、杜牧は恨みにさえ思ったでしょう。


     秋浦途中        秋浦の途中 杜牧

   蕭蕭山路窮秋雨  蕭蕭しょうしょうたり 山路さんろ 窮秋きゅうしゅうの雨
   浙浙渓風一岸蒲  浙浙せきせきたり 渓風けいふう 一岸いちがんの蒲がま
   為問寒沙新到雁  為ために問う 寒沙かんさ 新たに到れる雁がん
   来時還下杜陵無  来たる時 還た杜陵とりょうに下りしや無いなやと
山路に 晩秋の雨は降りやまず
谷風は 岸辺の蒲に寂しげに吹く
寒い水辺の砂浜に 降りたばかりの雁たちよ
ここへ来るときに わが杜陵に寄ってきたのか

 不満ではあっても官吏の身、告身辞令書にさからうことはできません。
 杜牧は任地に赴かざるを得ず、すぐに黄州を発ちます。詩題の「秋浦」しゅうほは池州の治所のある秋浦県のことで、池州に赴任する途中の作です。
 「山路」を越えてゆくのは、大別山南麓の丘を越えてゆくのでしょう。
 やがて水辺に到着し、岸辺の砂浜に降り立った雁に、都に立ち寄ってきたのかと問いかけます。
 「杜陵」は長安の東南郊外にあって、京兆府の杜氏の本拠の地です。
 杜牧は岸辺の雁にことよせて、都への恨みの言葉をつぶやくのでした。


哭李給事中敏   李給事中敏を哭す 杜牧

陽陵郭門外    陽陵ようりょう 郭門かくもんの外
坡陁丈五墳    坡陁はたたり 丈五じょうごの墳ふん
九泉如結友    九泉きゅうせんし友を結ばば
茲地好埋君    茲の地 君を埋うずむるに好よろ
陽陵県城の門外に
小さな盛土 一丈五尺の墓がある
あの世で君が 誰かと友になるのなら
朱雲と一緒に 葬ってこそ似つかわしい

 杭州刺史の李中敏りちゅうびんが任地で亡くなったという報せを聞いたのは、このころのことでしょう。
 李中敏は杜牧が江西観察使沈伝師しんでんしに仕えていたころの同僚で、文宗側近の鄭注ていちゅうを批判して職を免ぜられたほどの硬骨漢でした。
 甘露の変後、赦されて尚書省吏部の司勲員外郎に召され、累進して門下省の給事中に登用されましたが、そこでまた宦官の仇士良きゅうしりょうと衝突しました。左遷されて婺州ぶしゅう:浙江省金華市刺史から杭州刺史になっていましたが、任地で没してしまいました。詩中にある「陽陵」は平陵のあやまりで、漢代の朱雲しゅうんの墓は昭帝の平陵のほとりにありました。
 朱雲は権勢を恐れなかったことで有名な人物でしたので、その近くに葬るのがふさわしいと、李敏中の死を悼むのでした。


江上雨寄崔碣   江上の雨 崔碣に寄す 杜牧

春半平江雨    春の半なかば 平江へいこうに雨ふり
円文破蜀羅    円文えんぶん 蜀羅しょくらを破る
声眠篷底客    声は篷底ほうていの客を眠らせ
寒湿釣来蓑    寒さは釣来ちょうらいの蓑みのを湿うるお
暗澹遮山遠    暗澹あんたんとして 山を遮さえぎりて遠く
空濛着柳多    空濛くうもうとして 柳に着いて多し
此時懐一恨    此の時 一恨いっこんを懐いだ
相望意如何    相望む 意こころは如何いかん
春の半ば 満ちて流れる長江の
水の面に 雨は蜀羅の波紋を描く
雨の音は 篷の客の眠りをさそい
冷たい雨は 釣りびとの蓑に沁みいる
小暗い雨で 遠くに山はかすんでみえ
霧雨は 岸の柳をしとどに濡らす
そのときひとつ 無念の思いが湧いてきた
心境はいかんと 遠くにあなたを望み見る

 池州に赴任して明けた会昌五年八四五、春を迎えた杜牧はしきりに人恋しい気持ちになっていたようです。崔碣さいけつという友人に詩を送っています。
 崔碣はそのころ長安にいて中書省右拾遺従八品上の任にありました。杜牧は霧雨の降るあたりの風景に託して、自分の淋しい思いを詠っています。
 「此の時 一恨を懐く」と痛烈な一句を挟んでいますが、「一恨」は思うように任用されない恨みでしょう。
 しかし、結びは静かに、いかかがですかと相手の心境を問いかけています。


     池州清渓        池州の清渓 杜牧

   弄渓終日到黄昏   渓けいに弄あそびて終日 黄昏こうこんに到る
   照数秋来白髪根   照らして数かぞう 秋来しゅうらい 白髪はくはつの根こん
   何物頼君千遍洗   何物か君に頼りて 千遍せんぺん洗わるる
   筆頭塵土漸無痕   筆頭ひっとうの塵土じんど 漸く痕あと無し
終日 清渓に遊び 黄昏どきになった
秋に増えた白髪を 水鏡で数える
清渓が清めてくれたもの それは何であったろうか
筆先についた穢れ それもようやく消え去った

 そのころ江南では、江賊の害が目立つようになっていました。
 江賊とは二、三艘の舟に分乗して江上を移動する群盗で、当時盛んになりはじめていた江淮の草市そうしを襲いました。草市は水陸交通の要衝に発生した小さな市いちで、それまで城内の市に限られていた交易の場所が城外の地にひろがって町を形成するようになっていたのです。草市には富商、大戸と称される者も肆みせを出すようになり、江賊の的になっていました。
 杜牧は「李太尉に上りて江賊を論ずる書」を上書し、兵船をととのえて治安を安定させるべきであると進言しました。しかしそのころ、長安では武宗の廃仏騒動の最中で、李徳裕は江賊どころではありませんでした。
 武宗は会昌元年八四一に道士を宮中に入れ、道教に帰依するようになっていましたが、次第に道教以外の宗教を弾圧するようになり、会昌五年八四五七月には廃仏は最高潮に達していました。廃された寺院は四千六百寺、還俗させられた僧尼は二十六万五百人に及んだといいます。こうした状況のもと、杜牧の「江賊を論ずる書」は問題にもされず葬り去られます。
 詩題の「池州の清渓」は池州の壁下を流れる川で、九華山の西から出て西北に流れ、秋浦水と合して長江に注ぎます。杜牧は増えた白髪に苦笑しながら、「筆頭の塵土 漸く痕無し」とあきらめの境地を詠います。


  独酌         独酌 杜牧

窗外正風雪    窓外そうがいまさに風雪ふうせつ
擁炉開酒缸    炉を擁して 酒缸しゅこうを開く
如何釣船雨    如何いずれぞや 釣船ちょうせんの雨
篷底睡秋江    篷底ほうてい 秋江しゅうこうに睡ねむるに
窓の外は 大嵐
炉端で酒を飲むことと
雨降る秋の江上の 舟の苫屋で眠ること
いずれが勝っているだろうか

 詩中の「風雪」は国字こくじの嵐のことで、必ずしも雪が降っているわけではありません。詩は秋の作で、「窓外 正に風雪」は廃仏のあらしのことであるとも言えるでしょう。秋の夜に杜牧は炉端の酒と釣舟の苫屋の眠りとを比べていますが、答えは次回の同題の詩に示されています。


  独酌         独酌 杜牧

長空碧杳杳    長空ちょうくうみどり杳杳ようようたり
万古一飛鳥    万古ばんこ 一飛鳥いちひちょう
生前酒伴閑    生前せいぜん 酒 閑かんに伴ともな
愁酔閑多少    愁うれい酔えば 閑は多少いくばく
烟深隋家寺    烟けむりは深し 隋家ずいかの寺
殷葉暗相照    殷葉あんようひそかに相照らす
独佩一壷遊    独り一壷いっこを佩びて遊べば
秋毫泰山小    秋毫しゅうごう 泰山たいざんを小なりとす
大空は碧く 澄み切って奥深い
万古千秋は 鳥のように飛び去る
暇があれば 酒を相手の暮らしだが
憂さ晴らし 閑雅とはほど遠い
隋の寺に 霞が立ちこめ
紅葉は いつしか私に照り映える
ひと壷の酒を携え ひとり歩けば
泰山も 秋毫よりは軽いと思う

 勝負の軍配は酒にあがり、「秋毫 泰山を小なりとす」と持ち上げています。この句は『荘子』を踏まえており、天下に秋毫秋に生え変わる細い獣毛よりも大きいものはなく、泰山も小さいと言っています。
 杜牧は「独酌」という詩題を好んでいるようですが、州へは妻子とともに赴任してきていますので、独身ではありません。
 心から語り合える友がいないという意味です。
 隠者への思いも心をよぎりますが、廃仏の嵐も届かない江南で、州刺史杜牧は孤独を酒に紛らして過ごす毎日であったようです。
 「隋家の寺」は隋代創建の古い寺でしょう。廃仏は華北ではかなり広範囲に行われたようですが、江南の寺にまでは及んでいなかったようです。


    九日斉山登高      九日 斉山に登高す 杜牧

  江涵秋影雁初飛  江こうは秋影しゅうえいを涵ひたして 雁がん初めて飛び
  与客携壷上翠微  客と壷を携たずさえて 翠微すいびに上る
  塵生難逢開口笑  塵生じんせい 逢い難し 口を開いて笑うに
  菊花須插満頭帰  菊花(きくか)(すべか)らく満頭(まんとう)(さしはさ)みて帰るべし
  但将酩酊酬佳節  但だ酩酊を将って 佳節かせつに酬むくいん
  不用登臨恨落暉  用もちいず 登臨とうりんして落暉らくきを恨むを
  古往今来只如此  古往こおう今来こんらいだ此くの如し
  牛山何必独霑衣  牛山(ぎゅうざん) 何ぞ必ずしも 独り(ころも)(うるお)さん
秋景色を映して川は流れ 初雁も飛んできた
客といっしょに酒壷をさげ 小高い山に登る
人の世に 心から笑えるときはめったになく
今日こそは頭一杯 菊をかざして帰ろうではないか
折角の節句の日だ おおいに飲んで酩酊し
高い処で 沈む夕陽を嘆くのはよそう
人生とは 昔も今もこんなもの
牛山で衣をぬらした君公の 涙のあとは辿るまい

 寂しい心境の晩秋九月、丹陽江蘇省丹陽県に住む張祜ちょうこが杜牧を訪ねてきました。丹陽は潤州の南、運河に沿った町です。
 張祜は杜牧よりも十二、三歳年長で、詩才を謳われて穆宗の長慶年間に都に上りましたが、任用されず、以来、丹陽に隠棲して処士でした。
 詩題の「九日」きゅうじつは九月九日の重陽節のことで、二人は「斉山」せいざんに登ります。杜牧は心を許し合える友の来訪に久し振りにうきうきとして、歓びの詩を詠います。斉山は池州城の東南郊にあった高さ二十八丈約八七㍍の小高い丘で、斉の山ではありません。
 逆に「牛山」は斉の都臨淄の南にあった山です。
 春秋時代、斉の景公は牛山に登って国見をしました。
 そのとき、なぜこの美しい国土を残して死んでいかなければならないのかと、人生の無常を嘆いたといいます。杜牧は景公の故事を引いて、人生を嘆きながら過ごすのはよそうと言っています。
 「登高」とうこうして酒を飲み、人生を語り合ったとき、杜牧はむしろ自戒の言葉として、この句を入れたような気がします。


 登池州九峯楼寄張祜 池州の九峰楼に登りて張祜に寄す 杜牧

  百感中来不自由  百感 中うちより来たりて 自由ならず
  角声孤起夕陽楼  角声かくせいひとたび起こる 夕陽せきようの楼
  碧山終日思無尽  碧山へきざん 終日 思い尽くること無く
  芳草何年恨即休  芳草ほうそういずれの年か 恨み即ち休まん
  睫在眼前長不見  睫まつげは眼前に在れども 長つねに見えず
  道非身外更何求  道は身外(しんがい)(あら)ざれば 更に(いづうく)にか求めん
  誰人得似張公子  誰人たれひとか似たるを得ん 張公子ちょうこうし
  千首詩軽万戸侯  千首の詩は軽かろんず 万戸ばんこの侯こう
様々に憶いは溢れて どうしようもない
夕陽に映える九峰楼 角笛は鳴りわたる
碧山に隠れ棲む君を 終日思いつづけ
香り草の恨みは 何時になったら消えるのだろうか
目の前に睫はあるが 見ることはできず
真理はこの身にあり 外に求める必要はない
いったい貴君を 誰と比べられようか
万戸の侯よりも 詩を重んずる生き方よ

 この詩は張祜ちょうこが池州ちしゅうを訪ねてきたあと、張祜に送った詩とされています。詩題にある「九峯楼」きゅうほうろうは池州城の東南隅にあった城楼で、日暮れになると刻ときを告げる角笛を鳴らしました。
 「芳草」は屈原が楚辞のなかでしばしば用いる比喩で、世に隠れ住む才能、もしくは貞臣正しい心を持った臣下などをいいます。
 「何れの年か 恨み即ち休まん」と言っていますので、ここでの芳草は杜牧自身のことでしょう。張祜も芳草に比すべき人で、「千首の詩は軽んず 万戸の侯を」と、世俗を捨てて詩作に打ち込んでいる張祜の孤高の生き方を、比べることのできない生き方であると褒めています。


 池州春送前進士蒯希逸 杜牧 池州にて春 前進士の蒯希逸を送る

   芳草復芳草    芳草ほうそうた芳草
   断腸還断腸    断腸だんちょうた断腸
   自然堪下涙    自然に 涙を下くだすに堪えたり
   何必更残陽    何ぞ必ずしも更に残陽ざんようあらんや
   楚岸千万里    楚岸そがん 千万里
   燕鴻三両行    燕鴻えんこう 三両行さんりょうこう
   有家帰不得    家有るも 帰り得ず
   况挙別君觴    况いわんや君に別るる觴さかずきを挙ぐるをや
かおり草 野に満ちわたる春草よ
悲しい別れ つきぬ別れの悲しみよ
ひとりでに 涙はあふれ
沈む夕陽を さらに眺める力はない
万里に連なる楚江の岸
燕地にかえる大雁の群
家郷はあるが 帰郷はできず
酒杯を挙げて 君の門出を見送るのだ

 池州での二度目の春がめぐってきて、杜牧の帰郷への思いはつのっていました。そこに、前進士の蒯希逸かいきいつという若者が挨拶にやってきました。「前進士」ぜんしんしというのは貢挙に及第し、吏部試も終えて任官するばかりの者をいい、蒯希逸は新しく官途に就くことになり、門出の挨拶に来たのです。
 杜牧は送別の宴を開いて門出を祝い、詩を作って前進士に贈りますが、首聯の二句で刺史とも思えない嘆きを述べています。「楚岸」はむかし楚の領域であった池州の江岸です。「燕鴻」は燕地、つまり北の方へ帰る大雁のことになりますが、この二句は対句になっていますので楚と燕を対にしたのであって、都の方へ帰る雁の群れを言うのでしょう。
 「家有るも 帰り得ず」と、杜牧はあからさまな望郷の思いを詠っています。


    題池州貴池亭      池州の貴池亭に題す 杜牧

   勢比凌歊宋武台   勢いは比す 凌歊りょうきょう 宋武そうぶの台
   分明百里遠帆開   分明ぶんめいに 百里 遠帆えんぱん開く
   蜀江雪浪西江満   蜀江の雪浪せつろう 西江せいこうに満ち
   強半春寒去却来   強半きょうはん 春寒しゅんかん 去りて却た来たる
貴池亭の眺めは 宋の武帝の凌歊台に劣らず
百里彼方の舟の帆も はっきりと見分けられる
蜀江の逆巻く流れは 眼下の長江に満ちて
はつ春の寒さが ぶり返してきたようだ

 詠われている「貴池亭」きちていは、昨年秋に張祜ちょうこと登った斉山の頂きにある亭です。そこからは長江の流れを望むことができ、長江は池州の西を東北方向に流れていますので「西江」とも言うのです。
 この冬は特に寒かったらしく、蜀しょくの雪山から流れて来る雪解け水は冷たく、仲春の二月というのに初春の寒さがぶり返してきたようでした。春になっても寒々とした暮らしに、杜牧の気分は晴れることがありません。


春末題池州弄水亭 春末 池州の弄水亭に題す 杜牧

使君四十四    使君しくんは 四十四
両佩左銅魚    両ふたたび左銅魚さどうぎょを佩
為吏非循吏    吏と為るも 循吏じゅんりに非あら
論書読底書    書を論ずるも 底なんの書をか読む
晩花紅艶静    晩花ばんか 紅艶こうえん静かに
高樹緑陰初    高樹こうじゅ 緑陰りょくいんはじまる
亭宇清無比    亭宇ていう 清きこと比たぐい無く
渓山画不如    渓山けいざんも如かず
刺史のわたしは 四十四歳
左銅魚を佩びて 二度の勤めだ
役人になったが 循吏でもなく
書を読んだが いったい何処を読んだのか
遅咲きの花は 赤くあでやかに咲き
大木は 茂った葉で木蔭をつくる
弄水亭は 類いまれな清らかさ
山も川も 絵のように美しい

 会昌六年八四六の春、杜牧は四十四歳になっていました。
 詩題に「春末」しゅんまつとあるのは春三月のことで、「弄水亭」ろうすいていは杜牧が池州城通遠門南門外の景勝の地に建てた亭台です。
 詩はこの亭の壁に書きつけたもので、「吏と為るも 循吏に非ず 書を論ずるも 底の書をか読む」と謙遜とも自嘲ともつかない詠い方をしています。
 とはいっても、地元の客を呼んで新亭を披露したときの詩ですので、「亭宇 清きこと比無く」と褒めています。

嘉賓能嘯詠   嘉賓かひんく嘯詠しょうえい
官妓巧粧梳   官妓かんぎたくみに粧梳しょうそ
逐日愁皆砕   日を逐って 愁い皆みな砕け
随時酔有余   時ときに随って 酔うこと余り有り
偃須求五鼎   偃えんは須すべからく五鼎ごていを求むべく
陶祗愛吾廬   陶とうは祗だ吾が廬を愛するのみ
趣向人皆異   趣向しゅこうは 人ひとみなことなれり
賢豪莫笑渠   賢豪けんごうかれを笑うこと莫かれ
客たちは 巧みに詩を詠い
妓女達は みやびやかに粧い侍る
愁いは 日ごとに消え去り
飲む酒は いつでも酔うのに充分だ
主父偃は ひたすら出世を求めたが
陶淵明は 閑雅な廬の日々を愛した
好みはそれぞれ違っているが
賢明な諸公よ 彼らを笑ったりしないでくれ

 後半は宴のようすです。「官妓」は州の役所に所属する妓女のことで、州刺史は個人的とみられる遊宴の場に、官の妓女を侍らすことができました。
 「偃」は漢の武帝時代の主父偃しゅほえんのことで、ひたすら功名富貴を追い求めたと言われています。「陶」は東晋末の陶淵明とうえんめいのことで、有名ですので説明の必要はないでしょう。
 杜牧は対照的な生き方の二人を挙げて「趣向は 人皆異なれり 賢豪 渠を笑うこと莫かれ」と、酒宴の場らしく洒落のめして結んでいます。
 不遇ではありますが、杜牧は何といっても唐代の貴族です。
 素顔がのぞいても責めることはできないでしょう。杜牧は池州刺史のころ侍妾をかかえていたらしいことも伝えられています。
 杜荀鶴とじゅんかくは唐末から五代にかけての詩人ですが、池州石埭せきたい:安徽省太平県の生まれとされています。伝えでは杜牧が池州にいたときの侍妾の子で、侍妾は子が生まれる前に州人の杜筠といんという者に嫁し、杜荀鶴は杜筠の子として生まれたといいます。
 杜牧が聖人君子でなかったことは確かです。

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