望天門山       天門山を望む    李 白
 天門中断楚江開   天門てんもん 中断して楚江そこう開き
 碧水東流至北回   碧水へきすい 東流して北に至りて回めぐ
 両岸青山相対出   両岸の青山せいざん 相対して出で
 孤帆一片日返来   孤帆こはん 一片 日返にっぺんより来きた
天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ 北へ向かって曲がる
両岸の山が 相対してそば立つなか
帆舟がぽつり かなたの天から進んできた

 江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着きます。岳州の州治は岳陽にあって、南に洞庭湖が広がっています。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがありましたので、海のようなものです。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩きますが、くわしいことはわかりません。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘しょうしょうの地へも行ったと思われます。
 ところが夏の終わりに、呉指南が湖上で急死してしまいました。
 李白は旅の友をうしない号泣して悲しみますが、友の遺体を湖畔に仮埋葬して旅をつづけます。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着きます。
 鄂州の江夏県城は大きな街ですので、ここでしばらく体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かったはずです。江州の州治は尋陽じんようで、南に名勝廬山ろざんがありますが、山には登らなかったと思います。
 長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮こうわいの大平原へと流れ出てゆくのですが、その門戸に当たるところに掲げた詩の「天門山」があります。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆきます。
 この詩は後年の作とする説もありますが、私ははじめて天門を通過したときの李白の印象を大切にしたいと思って、ここに掲げました。
 北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であったのでしょう。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆくのです。この詩を作ったときの作者の位置・視点については、いろいろな解釈がありますが、帆舟が一艘、天の彼方から進んでくるように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っていると想像して訳しています。


  金陵酒肆留別  金陵の酒肆にて留別す 李 白

 風吹柳花満店香  風は柳花りゅうかを吹きて 満店香かんばし
 呉姫圧酒喚客嘗  呉姫ごきは酒を圧して 客を喚びて嘗めしむ
 金陵子弟来相送  金陵の子弟してい 来りて相い送り
 欲行不行各尽觴  行かんと欲して行かず 各々(さかずき)を尽くす
 請君試問東流水  請う君 試みに問え 東流とうりゅうの水に
 別意与之誰長短  別意べついと之これと 誰か長短なるやと

風は柳絮りゅうじょを吹き散らし 酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは 集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく 心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君 東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は どちらが深く長いかと

 天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい)(江蘇省南京市)の渡津としんに着きます。
 江寧郡城は六朝の古都建康けんこうの跡です。雅名を金陵きんりょうといい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いています。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河しんわいかの河口にあって、長干里ちょうかんりと横塘おうとうの歓楽地があり、酒旗高楼が林立していました。
 李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流します。半年近く滞在したあと、開元十四年(七二六)の暮春のころに舟を出して、さらに東へ進みます。
 詩は金陵を発つときの留別の詩で、呉の美女がいる酒肆しゅしに知友が集まり、送別の宴を催してくれました。

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