送杜顗赴潤州幕    杜顗の 潤州の幕に赴くを送る 杜牧

  少年才俊赴知音  少年の才俊さいしゅん 知音ちいんに赴く
  丞相門欄不覚深  丞相の門欄もんらんも 深きを覚えざらん
  直道事人男子業  道を直なおくして人に事つかうるは 男子の業
  異郷加飯弟兄心  郷を(こと)にせば(はん)を加えよとは 弟兄(ていけい)の心
  還須整理韋弦佩  還た須すべからく韋弦いげんの佩はいを整理すべし
  莫独矜誇玳瑁簪  独り玳瑁(たいあい)(しん)矜誇(きょうこ)すること()かれ
  若去上元懐古去  若し上元じょうげんに去きて 古を懐い去らば
  謝安墳下与沉吟  謝安しゃあんの墳下ふんかために沈吟ちんぎんせよ
知遇をえて赴任する 新進気鋭の弟よ
宰相の招きであれば 門を通るのは簡単だ
誠意をもって仕えるのが 男子のつとめ
異郷での暮らし 兄としては体を大切にしてほしい
たえずおのれを 正しく律するように努め
華やかな生活を 自慢したりしてはならぬ
上元県に行って 古をしのぶ機会があれば
謝安の墓で わたしの分も祈ってくれ

 杜牧が越州に使者となった大和八年八三四の冬十一月、弟杜顗が浙西団練使巡官・試協律郎に任ぜられ、浙西観察使の使府のある潤州に赴任することになりました。この年、李党の李徳裕は鎮海節度使に任ぜられていますので、杜顗は李徳裕の辟召を受けて潤州に行くことになったのです。そのころ牛党の李宗閔は中書侍郎・同平章事として都にいますので、揚州の牛僧孺とはかって李徳裕を江南に封じ込めようとしたのかも知れません。
 しかし杜牧は、杜顗が李徳裕の辟召を受けることを嫌ってはいません。
 むしろ、兄弟が牛党と李党に分かれて仕えることを、杜家の安全をはかる上で必要と思っていた節があります。明けて大和九年八三五春のはじめ、杜顗は潤州に赴任する途中で兄のいる揚州に立ち寄りました。揚州で遊ぶことも多かった杜牧も、弟に対しては兄らしく訓戒を垂れています。詩中の「上元」は潤州管下の県名で、南朝の都建康江蘇省南京市のあったところです。
 上元県の石子岡せきしこうというところに謝安しゃあんの墓がありました。
 杜牧は墓に参る機会があれば自分の分も祈ってほしいと頼んでいます。
 謝安は南朝晋の宰相で、桓温の纂奪の野望をくじき、前秦の苻堅ふけんが大軍を率いて東晋を攻めたときには、これを淝水ひすいに破って国を救いました。
 謝安の墓に参ることを持ち出したのは、謝安のように忠義の志を大切にして勤めようではないかと、弟を諭すとともに自分の志も述べたのでしょう。


    贈別二首 其二     贈りて別る 二首 其の二 杜牧

   多情却似總無情   多情は却かえって似たり 総べて無情なるに
   唯覚罇前笑不成   唯だ覚ゆ 罇前そんぜん 笑いの成らざるを
   蝋燭有心還惜別   蝋燭ろうそく 心有りて 還かえって別れを惜しみ
   替人垂涙到天明   人に替わって 涙を垂れて 天明てんめいに到る
感じやすいこの心 冷たいとみえることもあるだろう
別れの宴席で 顔はこわばってしまうのだ
優しい心があるように 蝋燭は別れを惜しみ
人に代わって夜明まで 熱い涙を流してくれる

 杜顗とぎが潤州に去ってほどなく、杜牧は監察御史正八品上に任ぜられ、長安に帰任することになりました。
 監察御史は御史台察院の御史で、官途のエリート・コースのひとつです。
 杜牧にようやくまともな内官の職がめぐってきました。
 この転任に吏部侍郎沈伝師の力添えがあったのは確実と思います。
 吏部は尚書省で人事や位階を担当する部局で、侍郎はその次官でした。
 都に帰ることになった杜牧には、なじみの歌妓との別れがあります。
 「贈りて別る 二首」はそのときの作品で、相手はもちろん「娉娉裊裊たり 十三余り」前出参照の歌妓です。蝋燭は当時は高価な灯火で、夜を徹して別れを惜しんでいますが、詩が言い訳がましいのは仕方がありません。
 唐代では厳然とした身分の差異があったのです。


      遣懐           懐いを遣る 杜牧

   落魄江南載酒行   江南に落魄らくたくし 酒を載せて行く
   楚腰腸断掌中軽   楚腰そよう腸断ちょうだん 掌中しょうちゅうに軽かろ
   十年一覚揚州夢   十年 一ひとたび覚む 揚州の夢
   占得青楼薄倖名   占め得たり 青楼せいろう 薄倖はっこうの名
江南に遊びくらして 酒びたりの毎日だった
楚腰の美女は愛らしく 掌中軽々と抱き上げられる
揚州の十年は 一場の夢
覚めて残るは ただ青楼の浮名のみ

 この有名な詩は、のちに回想して作られたものですが、洪州・宣州・揚州と、足かけ八年の江南生活を回想するものです。
 「落魄」らくたくは落ちぶれたではなく、自由気ままに振る舞う意味ですが、江南の交通は舟ですので、舟に「酒を載せて行く」のです。
 酒びたりの毎日だったと訳しましたが、反省ではなく若い日を懐かしく回想するものでしょう。「掌中に軽し」は漢の成帝の寵妃趙飛燕ちょうひえんが身軽くて、「能く掌上の舞いを為し」たという故事を踏まえているとされますが、そんな風に考えない方が面白いと思います。揚州で親しくしていた歌妓は、両手で抱き上げられるほどにほっそりとしていたのです。


    故洛陽城有感     故の洛陽城に感有り 杜牧

   一片宮牆当道危  一片の宮牆きゅうしょう 道に当たって危たか
   行人為汝去遅遅  行人こうじん 汝の為に 去ること遅遅ちちたり
   畢圭苑裏秋風後  畢圭苑裏ひつけいえんり 秋風しゅうふうの後のち
   平楽館前斜日時  平楽館前へいらくかんぜん 斜日しゃじつの時
   党錮豈能留漢鼎  党錮とうこあにに能く漢鼎かんていを留とどめんや
   清談空解識胡児  清談せいだん 空しく解く胡児こじを識るのみ
   千焼万戦坤霊死  千焼せんしょう万戦ばんせんして 坤霊こんれい死せり
   慘慘終年鳥雀悲  慘慘さんさんとして終年しゅうねん 鳥雀ちょうじゃく悲しむ
長く連なる牆壁が 道のゆく手に立ち塞がり
荒れた景色に 人の歩みはとどこおる
畢圭苑のあたり 秋風が吹き
平楽館の地には 夕日が斜めに射している
党人を禁錮して どうして漢朝を保てよう
清談の名評も 胡児の野心を論じたに過ぎない
戦乱と兵火にため 都の地霊はつき
いまはただ荒涼と 雀が悲しく鳴くばかり

 文宗の大和九年八三五春、三十三歳の杜牧は都で勤務をはじめました。
 ところが勤務してほどない初夏四月に、杜牧の後ろ盾であった沈伝師が病で亡くなりました。杜牧は落胆しましたが、嬉しい報せもありました。
 六月になって弟杜顗が咸陽県尉・直史館に任ぜられて、潤州から都にもどってくることになったのです。杜牧は兄弟そろって中央で勤務できることを喜びましたが、そのころ都の政情は極めて不穏な状態にありました。
 杜牧は急いで赴任する必要はないと弟に言ってやり、しばらく揚州にとどまって様子を見るようにしました。
 というのも、李訓りくんという者が周易博士から翰林講学士に登用され、文宗の信任を得て急速に頭角をあらわしていたからです。李訓は祖父が粛宗の宰相をしたことのある家柄で、進士にも及第していましたが、牛党にも李党にも属せず、鄭注ていちゅうという医術方技で流入官吏になることした者と手を組んで文宗に近づき、宦官撲滅の志を上聞したのです。
 文宗は宦官に擁立された皇帝ですが、心中ひそかに宦官勢力を排除したいと考えていましたので、李訓の志を受け入れました。
 李訓は大和九年の七月に翰林学士・兵部郎中知制誥になり、その月のうちに礼部侍郎・同中書門下平章事に任ぜられ、宰相になりました。
 鄭注も太僕卿から御史大夫を兼ねるようになり、さらに検校尚書左僕射・鳳翔節度使を兼務するようになります。
 ふたりとも極めて急速な昇進です。
 同じ七月に鄭注が宰相になるという噂がひろがりました。
 それを聞いた御史台侍御史の李甘りかんが反対を称えると、たちまち封州広東省封川県の司馬に左遷されてしまいます。
 李甘は杜牧と同年同年の進士及第者で、しかも御史台の同僚です。杜牧は政情が危険であるのを感じ、疾を理由に東都分司を願い出ました。
 洛陽の分司は閑職で、役職はあっても仕事はないに等しく、権力もないので政争に巻き込まれることもありません。
 秋七月に杜牧は監察御史・東都分司に任ぜられ、洛陽に赴任しました。
 着任してほどないころ、杜牧は漢魏洛陽の故都を訪れています。故都の旧址は唐の洛陽から東へ二十七、八里約十六㌔㍍のところにあります。
 漢魏洛陽城は北魏が滅んでから三百年も打ち捨てられ、城牆は崩れかけていましたが、それでも崩れた壁は道の行く手に高く聳え、その荒涼とした光景に杜牧の足は滞りがちになるのでした。「党錮」は後漢時代に宦官が官吏を獄に投じた事件で、杜牧の危機意識を表わすものですが、漢を借りても当時は危険な発言であったと思われます。
 「清談 空しく解く胡児を識るのみ」というのは、晋の王衍おうえんは清談と称して人物評を得意としていましたが、十四歳の羯族の少年石勒せきろくの野心を見抜くことができず、西晋滅亡の原因になったのです。
 杜牧はあれを思い、これを思って都城の旧址に立ちつくすのでした。


 張好好詩     張好好の詩つづき 杜牧

旌旆忽東下   旌旆せいはい 忽ち東下とうか
笙歌随舳艫   笙歌しょうか   舳艫じくろに随う
霜凋謝楼樹   霜は凋ちょうす謝楼しゃろうの樹
沙暖句渓蒲   沙すなは暖かなり句渓こうけいの蒲
身外任塵土   身外しんがい 塵土じんどに任せ
罇前極懽娯   罇前そんぜん 懽娯かんごを極む
飄然集仙客   飄然ひょうぜん 集仙しゅうせんの客
諷賦欺相如   諷賦ふうふ 相如そうじょを欺あざむ
聘之碧瑤珮   之を聘へいす碧瑤珮へきようはい
載以紫雲車   載するに紫雲車しうんしゃを以てす
ときに使職の旗は東に移り
笙歌の声も船にしたがう
謝朓楼の樹は霜に萎え
沙は暖かで句渓の蒲は伸びていた
世間のことは 成り行きに任せ
痛飲して娯しみを尽くすだけだった
そこにふらりときた集仙殿の客
詩賦の才は司馬相如のような人物だ
碧の首飾りと珮玉で君を迎え
紫雲車に載せて連れ去った

 洛陽の新潭しんたん:波止場に近い清化坊のあたりは、繁華街です。
 杜牧が洪州・宣州時代に親しくしていた張好好と再会したのは、そんなある日の清化坊であったかもしれません。
 「張好好の詩」については、前半を掲げていますので参照してください。
 今回はそのつづきの部分で、沈伝師が洪州から宣州に転勤したとき、杜牧も張好好もいっしょに宣州に移ったことから詠いはじめます。
 二句目の「笙歌」は張好好のことでしょう。
 世間のことは成り行きに任せ、楽しく飲んで遊んでいたところに、秘書省著作郎の沈述師が都からやって来て張好好をみそめ、身請けして長安に連れ去ったと、杜牧は当時のことを回想します。

洞閉水声遠   洞どう閉じて水声すいせい遠く
月高蟾影孤   月高くして蟾影せんえいなり
爾来未幾歳   爾来じらい 未だ幾歳きさいならず
散尽高陽徒   散じ尽くす高陽こうようの徒
洛城重相見   洛城らくじょう   重ねて相見あいみ
綽綽為当壚   綽綽しゃくやく   当壚とうろを為
恠我苦何事   我を恠あやしむ 何事に苦しみ
少年垂白鬚   少年しょうねん 白鬚はくしゅを垂るるや
朋友今在否   朋友ほうゆう 今 在りや否いな
落拓更能無   落拓らくたく 更に能よくするや無いな
洞門は閉じて 水音は遠く
月は高処にあって月影は孤絶である
それからまだ幾年もたたないのに
昔の飲み仲間はちりぢりになった
洛陽の都で再会すれば
しとやかに 君は酒場に立っている
お若いのに どんな苦労をなさったの
なんで白髪におなりになったの
かつてのお仲間はお元気ですか
うらぶれて おいでの方はいませんか

 張好好は長安に連れて行かれましたが、その後、沈述師のもとをはなれ、洛陽に移り住んでいました。張好好は十九歳になっていましたが、酒場の女に身を落としていたようです。遊女を兼ねていたのかもしれません。
 「綽綽 当壚を為す」までは杜牧の言葉ですが、つづく四句は張好好が杜牧に言った言葉です。「何事に苦しみ 少年 白鬚を垂るるや」、昔のお仲間はどうしておられますかと安否を尋ねられ、杜牧は言葉もなかったでしょう。

門館慟哭後   門館もんかん 慟哭どうこくの後のち
水雲秋景初   水雲すいうん 秋景しゅうけいの初め
斜日掛垂柳   斜日しゃじつ 垂柳すいりゅうに掛かり
涼風生座隅   涼風りょうふう 座隅ざぐうに生ず
灑尽満襟涙   満襟まんきんの涙を灑そそぎ尽くして
短歌聊一書   短歌たんか   聊いささか一書いっしょ
客のいる館で慟哭すれば
流れゆく水に白雲 秋景色
夕日がななめに柳を照らし
涼風が部屋の隅から吹いてきた
あふれでる涙で衿をぬらしつつ
短めの歌をつくって書きとめる

 最後の六句は全体の結びです。
 はじめの四句で、二人は酒楼の部屋に坐していることが分かります。
 客がいるのもかまわずに、二人は声をあげて泣き、流れゆく水や白雲、夕陽に照らされている柳、吹いてくる涼風すずかぜ、時は秋の夕暮れであることがさりげなく描かれます。
 詩人としての杜牧の腕前の並でないことが示されている部分です。あふれる涙で衿を濡らしながら、二人は茫然と顔を見合わせていたでしょう。
 「満襟の涙を灑ぎ尽くして 短歌 聊か一書す」と、杜牧は人生の定めのなさを詠うだけでした。


   寄揚州韓綽判官    揚州の韓綽判官に寄す 杜牧

  青山隠隠水遥遥  青山せいざん隠隠として 水みず遥遥ようようたり
  秋尽江南草木凋  秋尽きて 江南 草木そうもくしぼ
  二十四橋明月夜  二十四橋にじゅうしきょう 明月の夜
  玉人何処教吹簫  玉人ぎょくじんいずれの処にか吹簫すいしょうを教うる
緑の山はおぼろに霞み 水路はどこまでもつづいている
江南に秋は深まり草は枯れ 落ち葉の季節となったであろう
明月が 二十四橋を照らす夜
どんな処で君はいま 笛の吹き方を教えているのか

 張好好と再会して、揚州の遊び友だち韓綽かんしゃくを思い出したのか、杜牧は韓綽に詩を寄せています。
 江南の秋を思い出して詠っているようですが、「江南 草木凋む」の句には衰亡する時代への憶いが込められているかも知れません。
 韓綽に「玉人」と呼びかけ、どうしている、笛など吹いている場合ではないぞ、と危機意識を訴えているようにも思えます。
 「二十四橋」は、現在は揚州の痩西湖に架かる橋の名になっていますが、ここでは揚州城内にかかる橋の総称であったと思われます。橋はもっと多かったかもしれませんが、二十四の名橋があったと考えてもいいでしょう。


題敬愛寺楼    敬愛寺の楼に題す 杜牧

暮景千山雪   暮景ぼけい 千山の雪
春寒百尺楼   春寒しゅんかん 百尺ひゃくせきの楼ろう
独登還独下   独り登り 還た独り下くだ
誰会我悠悠   誰か会かいせん 我が悠悠ゆうゆうたるを
雪をいただく山々は 夕陽に映えて
底冷えの春 空に高楼は聳え立つ
ひとりで登り またひとりで降りながら
誰が分かって呉れるのか この断ちがたい憂愁を

 韓綽に詩を送った年大和九年の冬十一月二十一日に、長安で大事件が起こりました。史上「甘露かんろの変」と称されています。
 文宗の信任を受けた李訓は、まず宦官の中の有力者であった王守澄おうしゅとうを除こうと考え、宦官の仇士良きゅうしりょうを神策軍中尉に起用して味方にし、十月に王守澄の罪を弾劾して賜死に処しました。
 王守澄の葬儀の際に、鄭注の鳳翔軍を都に入れて仇士良以下の宦官を皆殺しにする計画でしたが、それでは宦官誅滅の功績が鄭注に帰してしまうと考えた李訓は、急に謀を変え、金吾左杖きんごさじょうの中庭にある柘榴の木に甘露が降ったと奏上することにしました。金吾左仗は大明宮含元殿の左側にある衛所で、大明宮に向かって右側にあります。
 十一月二十一日の早朝、李訓の意を受けた左金吾衛大将軍韓約かんやくは紫禁殿に伺候して甘露が降ったと奏上します。
 甘露が降るのは瑞祥ですから、文宗は紫宸門を出て含元殿に臨御し、まず李訓に命じて真偽を確かめさせます。もどってきた李訓は、本当の甘露ではないようだと、もっともらしい報告をします。
 すると文宗は疑うようなそぶりで仇士良に命じ、宦官たちを連れて再度確かめてくるように言いました。仇士良ら宦官たちが金吾左仗に近づくと、一陣の風が吹いて幔幕の裾がめくれ上がります。幕の後ろに武装した兵が隠れているのを見た宦官たちは、驚いて宮中に駆けもどりました。
 事が露見したことを知った李訓は、金吾の衛士を宮中に入れて宦官たちを誅殺しようとしましたが、仇士良らは文宗を擁して大明宮の奥へ逃げ込み、難をのがれます。
 神策軍の宿衛は大明宮の玄武門北門外にありましたので、仇士良は神策軍に出動を命じ、金吾の兵を破って宮中の諸官を逮捕しました。
 李訓はいったん南へ落ちのびて、鳳翔城に逃げ込もうとしましたが、途中で神策軍に捕らえられ、みずから首を打たせて死にました。この事件では多くの無実の高官が捕らえられ、おびただしい血が流されました。
 後に残ったのは文宗だけです。このとき杜牧が長安にいれば、どんな災難に巻き込まれていたか知れません。東都分司に移っていたのは幸いでした。
 血なまぐさい騒ぎのうちに年は変わり、翌年は事件を忌んで開成元年八三六と改元されます。詩題の「敬愛寺」けいあいじは洛陽の懐仁坊にあり、杜牧は寺内の高楼に上って夕陽にかがやく残雪の山々を眺めたのでしょう。
 長安はいまや宦官の天下です。結句の「我が悠悠たるを」は『詩経』巻頭の「関雎」かんしょを踏まえるもので、果てしない憂悶を意味します。
 甘露の変に対する杜牧の憂愁が伝わってきます。


  金谷園         金谷園 杜牧

繁華事散逐香塵   繁華はんかこと散じて 香塵こうじんを逐
流水無情草自春   流水無情 草くさおのずから春なり
日暮東風怨啼鳥   日暮にちぼ 東風とうふう 啼鳥ていちょうを怨む
落花猶似堕楼人   落花らっかは猶お堕楼だろうの人に似たり
華やかな宴の香りは 塵と消え去り
無情にも川は流れて 春の野に草は茂る
日暮れて吹く春風よ 鳥は怨みの声で啼き
身を高楼から投げた人 花のように舞い散った

 甘露の変によって宦官の専横ははげしさを加え、杜牧は国の将来を憂えますが、どうすることもできません。
 憂慮に堪えかねて、洛陽の郊外を歩きまわるのでした。
 「金谷園」きんこくえんは洛陽の東北十八里約十㌔㍍のところにあり、金谷澗という川が流れ、あたりは晋の富豪石崇せきすうの広大な荘園があった場所です。
 その景勝の地もいまは春草が茂るだけの廃虚と化していました。
 石崇の愛妾緑珠りょくしゅは、ときの権力者の側近孫秀そんしゅうから目をつけられ、女争いになりました。緑珠はそのことを主人石崇に詫び、高楼から身を投げて死んだと言われています。
 杜牧は春の野に舞い散る花を、楼上から堕ちる美女の裳衣のひるがえるさまに幻想し、みずから犠牲となった女人を悼みます。「堕楼の人」は衰微してゆく唐朝の姿とも重なるものであったかも知れません。


     洛陽秋夕        洛陽の秋夕 杜牧

  泠泠寒水帯霜風  泠泠れいれいたる寒水かんすい 霜風そうふうを帯ぶ
  更在天橋夜景中  更に天橋てんきょう 夜景の中うちに在り
  清禁漏閑煙樹寂  清禁せいきんは漏閑ろうかんにして 煙樹えんじゅせきたり
  月輪移在上陽宮  月輪げつりんは移りて 上陽宮じょうようきゅうに在り
霜つく風を含んで 水は清らかに流れ
澄み切った水音が 天津橋の夜景にひびく
宮殿には漏刻の音 靄のなかで木立は静まり
満月は西へ移って 上陽宮の上にある

 杜牧は開成元年の秋までに結婚したようです。
 妻は河東山西省侯馬市一帯の人で、郎州刺史裴偃はいえんのむすめでした。
 杜牧は三十四歳になっていますので遅い結婚と言うべきでしょう。
 翌年には嫡子曹師そうし:幼名が生まれています。杜牧はもはや若者ではありませんが、妻を迎えた歓びの詩はありません。
 結婚の経緯について語るものもなく、姉が裴儔はいちゅうに嫁していますので、その関係で迎えたのかもしれません。杜牧は李白や杜甫と違って妻子のことを全くと言っていいほど詩に詠っていません。
 杜秋や張好好、緑珠、また揚州の妓女など、女性を詠った詩は多いのに、妻に関する詩がないのは不思議なくらいです。「洛陽の秋夕しゅうせき」は淡々とした叙景詩のように見えますが、凄絶な謐けさが秘められています。
 唐の洛陽は則天武后のときには神都と称され繁栄を極めましたが、安史の乱で二度も占領され荒廃してしまいました。
 そのご修復はされましたが、天子の行幸もなくなり、以前の繁栄を取りもどすことはありませんでした。「天橋」は天津橋てんしんきょうのことで、洛陽皇城の端門前、洛水を跨いで架かっている三橋のなかで最長の虹橋でした。
 その夜景のなかから聞こえてくるのは「泠泠」とした水の音と霜をはらんだ風の音だけです。当時は霜は空から降って来ると考えられていましたので、突き刺すような寒風と考えるべきでしょう。見上げると洛水北岸の台地に皇城の牆壁がつらなり、西に接して「上陽宮」があります。
 離宮は神都苑の木立につつまれ、暗い木立の上には西に傾いた満月が夜空にぽっかりと浮かんでいます。
 聞こえてくるのは漏刻の水の滴る単調な音だけです。若いころの杜牧の明るく華やかな詩風は、すっかり影をひそめてしまっています。


題揚州禅智寺  揚州の禅智寺に題す 杜牧

雨過一蝉噪   雨過ぎて 一蝉いっせんさわ
飄蕭松桂秋   飄蕭ひょうしょうとして 松桂しょうけい秋なり
青苔満階砌   青苔せいたい 階砌かいせいに満ち
白鳥故遅留   白鳥はくちょうことさらに遅留ちりゅう
暮靄生深樹   暮靄ぼあい 深樹しんじゅに生じ
斜陽下小楼   斜陽しゃよう 小楼に下くだ
誰知竹西路   誰か知らん 竹西ちくせいの路
歌吹是揚州   歌吹かすいれ揚州なるを
雨は去り 蝉がせわしく鳴き出した
松桂に 吹き渡る秋の風
石階を みどりの苔が埋めつくし
白鷺は いつまでも飛び立とうとしない
夕靄は 木立の奥から湧き起こり
夕日は 小楼のかげに沈んでゆく
竹林の西 路のかなたに賑やかな
揚州の 街があるとは思えない

 そのころ揚州にとどまっていた杜顗とぎは、甘露の変が起きたのを知ると、咸陽県尉・直史館の職を辞し、都のようすを見守っていました。
 実は杜顗は次第に目が見えなくなってきており、このままでは新しい職務に就くこともできないと考え、年末になって眼疾の悪化と療養の必要を洛陽の兄に知らせました。杜牧は驚いて、翌開成二年八三七の春、弟を見舞うために一時休暇を願い出て揚州へ向かいます。都の眼医石公集せきこうしゅうが名医であるというので、それを伴ない、まだ弟に紹介していなかった妻も、懐妊中でしたがいっしょに船に乗せて運河を下りました。
 杜顗の揚州での寄寓先は、禅智寺ぜんちじという寺で、揚州城郊外三里約一.六㌔㍍ほどの東にありました。
 杜牧は着くとすぐに弟の目を診断させましたが、石公集は幾度も診たうえで、しばらく様子をみないと何とも言えないと言葉を濁します。
 一か月以上たってから、毒素が瞳孔を塞いでいるので針を打って取り除く必要があると診断し、ただし手術をするにはもう少し待って、毒脂が白玉色になってからだと言います。
 杜顗の眼病は、いまでいう白内障であろうと思います。
 そのうちに妻の出産の時期は近づいてくるし、休暇の期限の百日間はたちまちに過ぎてしまいます。杜牧は無断欠勤の咎を問われて、監察御史の職を解任されてしまいました。
 夏五月を過ぎて、淮南節度使の牛僧孺は都に復帰し、かわって李徳裕が淮南節度副大使になって揚州に赴任してきました。
 「石階」きざはしを苔が埋めつくし、秋になりましたが、杜牧は揚州の街にも出かけず、禅智寺に籠もってなすところもなく過ごしていました。
 詩はそのときのもので、結びに「誰か知らん 竹西の路 歌吹 是れ揚州なるを」とあるように、かつて華やかに遊んだ揚州の街が近くにあるのに、出かける気にもならなかったのです。


     潤州 其一       潤州 其の一 杜牧

   句呉亭東千里秋   句呉亭東こうごていとう 千里の秋
   放歌曾作昔年遊   放歌して 曾かつて昔年せきねんの遊ゆうを作
   青苔寺裏無馬跡   青苔せいたいの寺裏じり 馬跡ばせき無く
   緑水橋辺多酒楼   緑水りょくすいの橋辺きょうへん 酒楼しゅろう多し
   大抵南朝皆曠達   大抵たいてい南朝は 皆みな曠達こうたつ
   可憐東晋最風流   憐あわれむ可し 東晋とうしん最も風流なり
   月明更想桓伊在   月明げつめい 更に想う 桓伊かんい在りて
   一笛聞吹出塞愁   一笛いってき 吹くを聞く 出塞しゅつさいの愁うれ
句呉亭の東は 見わたす限り秋の色
この地でかつて 高らかに歌い遊んだものだ
青苔の寺のあたりに 馬の蹄のあともなく
緑水の橋のあたりは 酒楼がひしめきあっていた
およそ南朝の人々は 自由で広い心を持ち
とりわけ晋の人々の 風雅な趣味は慕わしい
月あかりのもと あの桓伊があらわれて
出塞曲の一節が 胸にしみじみ沁みてきた

 杜牧が揚州で無為に過ごしていたとき、宣歙観察使の崔鄲さいたんから招きがありました。崔鄲は杜牧の座主進士及第のときの試験官崔郾さいえんの弟で、師縁が働いたわけです。
 杜牧はともかく収入と落ちつく先が必要でしたので、九月に宣州団練判官・殿中侍御史内供奉に就任して、宣州に行くことになります。
 前に宣州で勤めたときと大差のない仕事ですが、寄禄官である殿中侍御史従七品上は前職の観察御史よりも二品階上です。
 二度目の宣州勤めになるのは仕方がないので、杜牧は妻子のほか弟と眼医石公集をともなって揚州を発ち、途中、潤州江蘇省鎮江市に立ち寄ります。
 泊まったのは州廨しゅうかいの客舎であったようです。
 句呉亭は州廨の中にあった建物で、上れば一面の秋景色です。
 潤州はかつて揚州在任中に幾度も立ち寄り、青春を謳歌した街です。
 どこにも想い出のある懐かしい街でした。
 「桓伊」は東晋の名将で、笛の名手として知られていました。王羲之おうぎしの子の王微之おうびしが都建康の青渓に舟泊まりしたとき、たまたま通りかかった桓伊に一曲所望したところ、桓伊は三曲を奏して立ち去ったといいます。
 この話は南朝の人の風雅として知られていました。


   寄題甘露寺北軒    甘露寺の北軒に寄題す 杜牧

   曾上蓬莱宮裏行   曾かつて蓬莱宮裏ほうらいきゅうりに上りて行く
   北軒欄檻最留情   北軒ほくけんの欄檻らんかん 最も情を留とど
   孤高堪弄桓伊笛   孤高なるは 桓伊かんいの笛を弄くに堪
   縹緲宜聞子晋笙   縹緲たるは 子晋ししんの笙しょうを聞くに宜よろ
   天接海門秋水色   天は接す 海門 秋水しゅうすいの色
   煙籠隋苑暮鐘声   煙は籠む 隋苑 暮鐘ぼしょうの声
   他年会着荷衣去   他年 会かならず荷衣かいを着けて去
   不向山僧道姓名   山僧さんそうに向かって姓名を道わざらん
かつて遊んだ甘露寺は 蓬莱の山かと思う
北の廊下 欄干の辺り いまも心に残っている
孤高の風情は 桓伊の笛にふさわしく
漂うさまは 王子晋の笙に似ている
海門山の辺り 水は天につらなって秋の色
遠くにかすむ隋苑から 日暮れの鐘が聞こえてくる
いつかきっと 蓮の衣の隠者となって
名も告げずに僧たちと 語り合いたいものである

 「甘露寺」かんろじも杜牧がかつて遊んだ場所です。
 潤州の城外東北に北固山があり、山上に甘露寺が建っていました。この寺は十年ほど前に李徳裕が浙西観察使であったときに建てた新しい寺です。
 杜牧はこの寺のたたずまいを、桓伊の笛や王子晋おうししんの笙にたとえて褒めています。見わたすと、海門山長江河口の島のあたりは秋の空と江の水がとけ合い、はるかに揚州の隋苑ずいえんから鐘の音が聞こえて来るようでした。
 当時の長江は河口がいまよりも陸化していませんでしたので、潤州は河口近くに位置していました。この詩で杜牧は、隠者への憶いを述べています。
 詩題に「寄題」とありますので、詩は後に遠くから、多分宣州から人に託して送り、寺の壁に書き記してもらったものでしょう。
 隠者への志向は二度目の宣州勤務のころから強くなります。


  泊秦淮         秦淮に泊す 杜牧

煙籠寒水月籠沙   煙は寒水かんすいを籠め 月は沙すなを籠む
夜泊秦淮近酒家   夜 秦淮しんわいに泊して 酒家しゅかに近し
商女不知亡国恨   商女しょうじょは知らず 亡国の恨み
隔江猶唱後庭歌   江こうを隔てて 猶お唱う 後庭歌こうていか
寒々と霧は川面に立ちこめて 月は岸辺の沙に照る
その夜 秦淮の岸に泊まれば 酒楼に近い
歌姫に 亡国の恨みなどわかろうはずもなく
川の向こうではいまもなお 玉樹後庭歌を唱っている

 長江は満潮時になると、かなり上流まで海潮が逆流し、長江の遡行には潮の流れを利用します。潤州から百三十五里約七六㌔㍍ほど遡ると、秦淮河口の渡津としんに着きます。
 ここは建康城の南を流れる秦淮河が長江に注ぐところで、河岸には長干里ちょうかんりや横塘おうとうといった歓楽街があり、妓楼が立ち並んでいました。
 杜牧は夜の寒気の深まるなか、舟を河岸につなぎますが、妓楼からは暗い川面をつたって玉樹後庭歌ぎょくじゅこうていかを歌う声が流れてきます。
 この歌は南朝最後の天子、陳の後主陳叔宝ちんしゅくほうが作った詞で、歌妓たちは亡国の歌であることも知らずに歌っています。
 杜牧はそれを聞くと、歴史の哀れさに胸をつかれる憶いがするのでした。

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