江南弄         江南弄 李賀

   江中緑霧起涼波   江中の緑霧りょくむ 涼波りょうはに起こり
   天上畳巘紅嵯峨   天上の畳巘じょうけんこう嵯峨さがたり
   水風浦雲生老竹   水風すいふう 浦雲ほうん 老竹ろうちくに生じ
   渚瞑蒲帆如一幅   渚は瞑れて 蒲帆ほはん一幅の如し
   鱸魚千頭酒百斛   鱸魚ろぎょ千頭 酒百斛こく
   酒中倒臥南山緑   酒中に倒臥とうがすれば 南山緑みどりなり
   呉喩越吟未終曲   呉喩ごゆ 越吟えつぎん 未だ曲きょく終えざるに
   江上団団貼寒玉   江上こうじょう 団団として寒玉かんぎょくを貼じょう
涼しい川波 緑の霧が立ちこめて
雲の峰は 夕焼けの紅色に照り映える
水上の風 入江の雲は 老いた竹から生じ
渚は暮れて 蒲の大帆も一幅の帆のようだ
鱸魚は千匹 酒は百斛
酔い痴れて 倒れ込んだら南の山は緑色
呉歌 越吟 まだ唄い終わらないうちに
江上に丸い玉 寒々と空に貼りつく

 李賀は金陵に滞在したあと、潤州江蘇省鎮江市に向かって長江を下りました。詩題「江南弄」こうなんろうの弄は曲のことで、長江を下るときの舟遊びの楽しみを詠うものです。李賀は呉越をめざして長江を下っており、はじめの四句は船上からの眺めです。とある津湊しんそうに着いて、渚は日暮れの色になってきました。「蒲帆一幅の如し」というのは、蒲の葉で編んだ帆が畳まれて、一幅ほどの大きさになったというのでしょう。
 一幅は小舟の帆ひとつの大きさを言うようです。
 李賀ははじめての江南の旅に浮かれ気味のようです。「鱸魚」は江南の珍味として有名であり、舟には酒もたくさん積んであります。
 たっぷり飲んで酔いつぶれると、李賀の目に緑の山が飛び込んできました。
 「呉喩越吟」は四語の成句で、呉越の歌のことです。それを唄い終わらないうちに、江上の空に「団団寒玉」満月が浮かんできました。


 追和柳惲      柳惲に追和す 李賀

汀洲白蘋草    汀洲ていしゅう 白蘋草はくひんそう
柳惲乗馬帰    柳惲りゅううん 馬に乗りて帰る
江頭樝樹香    江頭こうとう 樝樹さじゅかんばしく
岸上胡蝶飛    岸上がんじょう 胡蝶こちょう飛ぶ
酒盃箬葉露    酒盃しゅはい 箬葉じゃくようの露
玉軫蜀桐虚    玉軫ぎょくしん 蜀桐しょくどうの虚きょ
朱楼通水陌    朱楼しゅろうは水陌すいはくに通じ
沙暖一双魚    沙すな暖かなり 一双いっそうの魚うお
汀の洲に 白蘋草
柳惲が 馬に乗って帰ってきた
川の辺に 樝やまなしの木がかおり
岸の上を 蝶が飛んでいる
杯の酒は 箬葉の露
玉の琴柱 蜀桐の琴は鳴りわたる
朱塗りの高楼は 大きな水路に通じ
岸辺の砂は暖かく つがいの魚が泳いでいる

 李賀は潤州から運河を伝って南への船旅をつづけ、嘉興浙江省嘉興市まで行って、そこから西へ湖州浙江省湖州市を訪れました。湖州の州治は沈亜之ちんあしの故郷呉興であり、そこで友人と会うためです。詩題の「柳惲」は南朝梁の呉興太守で、その名を借りて「呉興の才子」である沈亜之を詠うものです。
 沈亜之はこの年のはじめに進士に及第し、涇原節度使李彙りいの辟召を受けて使府の掌書記になっていました。ところがほどなく李彙が病で亡くなったので、故郷に帰ってきたところでした。
 「柳惲 馬に乗りて帰る」は、そのことを言っています。沈亜之は李賀の訪問を非常に喜び、呉興の銘酒を振る舞って歓待しました。
 「箬葉の露」は呉興の西に箬渓という谷があり、竹林と水で有名でした。
 箬渓の水で醸した酒は美味で知られていましたので、その酒を振る舞われたのです。その対句として「蜀桐の虚」があると考えられ、蜀の桐で作った琴の胴はよく響くという意味です。結びの二句「朱楼は水陌に通じ」は沈亜之の将来を祝福する言葉で、「沙暖かなり 一双の魚」は、このとき沈亜之は結婚していて、夫婦の幸せを祝福するものです。


 蘇小小墓    蘇小小の墓 李賀

幽蘭露       幽蘭ゆうらんの露
如啼眼       啼眼ていがんの如し
無物結同心    物の同心どうしんを結ぶ無く
煙花不堪剪    煙花えんかは剪むに堪えず
草如茵       草は茵しとねの如く
松如蓋       松は蓋きぬがさの如し
風為裳       風を裳もすそと為
水為珮       水を珮はいと為
ひっそり生えている蘭の露
涙でぬれる目のようだ
お供えしたいが持ち合わせはなく
折るべき花は霧のなか
草はしとねのようで
松はさしかける傘のようだ
吹く風を裳裾のように身にまとい
川瀬の音は珮玉の音

 李賀は湖州から南下して杭州浙江州杭州市に出ました。
 このあたりは水路が発達していますので、舟で移動したでしょう。
 杭州では往年の名妓蘇小小そしょうしょうの墓を訪れています。「蘇小小」は南朝斉の美妓で、銭塘杭州の州治のある県の街で名を馳せていました。蘇小小の墓と称するものは嘉興と杭州の二か所にあり、この場合は杭州です。
 一句三語の詩というのは珍しいものですが、前半の八句は墓前に立って、あたりのようすを描いて見事です。
 「同心を結ぶ」の本来の意味は、男女の心の結びつき、恋人になることですが、ここでは墓前に供えるものがないと解していいでしょう。

油壁車    油壁車ゆへきしゃ
夕相待    夕べに相あい待たん
冷翠燭    翠燭すいしょく冷やかに
労光彩    光彩こうさいを労ろう
西陵下    西陵せいりょうの下もと
風吹雨    風 雨を吹く
雨をはじく幌馬車は
夜ごとに君を待っている
蒼い鬼火の灯火を
いまも空しく燃やしつつ
西陵の橋のあたり
雨は激しく吹きつける

 前半の現実に対して、後半六句のはじめ四句は幻想を描いています。
 「油壁車」は青色の油布を四面に張って雨除けにした車で、蘇小小が生前に使っていたという伝えのある贅沢な車です。
 その車が夕べ「翠燭冷やかに」待っているというのは、青い灯火を点して死者を待っているのであり、明りは無駄に燃えています。「西陵」は西湖の西北部、孤山のあたりをさし、孤山湖岸に近い島に渡る橋がかかっていました。
 結びは橋のほとりにある蘇小小墓に雨が激しく吹きつけてきたという情景で、荒涼とした心象が際立っています。


  七夕        七夕 李賀

別浦今朝暗    別浦べっぽ 今朝こんちょう暗く
羅帷午夜愁    羅帷らい 午夜ごやに愁う
鵲辞穿線月    鵲かささぎは辞す 線いとを穿うがつ月
蛍入曝衣楼    蛍ほたるは入る 衣を曝さらすす楼ろう
天上分金鏡    天上てんじょう 金鏡きんきょうを分かち
人間望玉鉤    人間じんかん 玉鉤ぎょくこうを望む
銭塘蘇小小    銭塘せんとうの蘇小小
更値一年秋    更に一年の秋に値
別れの浦も 今朝はほの暗く
夜中には 羅の帳の奥で愁いに沈む
鵲も去り 人は針に糸を通して月に祈り
蛍は舞って 虫干しの楼に入ってくる
天上の月は 鏡を割ったような半月で
見上げれば 玉の鉤のようでもある
銭塘の美妓 蘇小小よ
年は巡って 再び秋がやってきた

 詩題の「七夕」たなばたは七月七日のことですが、主として牽牛織女の別れを詠っています。「別浦」は二星が別れた天の川の入江で、「羅帷」は天上の部屋のとばりでしょう。
 「鵲は辞す」というのは、鵲かささぎが天の川を埋めて橋となり、織女を渡すという伝説を踏まえるもので、その鵲も去ったというのです。
 「線を穿つ月」は、当時、乞巧きつこうという七夕の行事があって、女子は針の穴に糸を通し、瓜を供えて針仕事の上達を願ったといいます。
 また「衣を曝す楼」は、七月七日に蔵書や衣類を陽に曝して虫干しをする習慣があったもので、楼は虫干しの場所でしょう。
 「分金鏡」は片割れ月のことです。旧暦七月七日の月は鏡当時は銅鏡を割ったように見え、地上から見上げると「玉鉤」のようにも見えると詠います。この二句には、人生の別れについての思いが込められているように思います。
 結びは蘇小小にも会うことができず、また一年が過ぎてしまったと嘆いていますが、蘇小小に会えなかったという言葉には現実の背景があるようにも思われます。


 緑水詞       緑水詞 李賀

今宵好風月    今宵こんしょう 好風月こうふうげつ
阿侯在何処    阿侯あこう 何処いずくにか在る
為有傾人色    人を傾くる色いろ有るが為に
翻成足愁苦    翻かえって愁苦しゅうくの足るを成
東湖採蓮葉    東湖とうこに蓮葉れんようを採り
南湖抜蒲根    南湖なんこに蒲根ほこんを抜く
未持寄小姑    未だ持して小姑しょうこに寄せざるは
且持感愁魂    且しばらく 持して愁魂しゅうこんに感ぜん
今宵は 麗しい風月の夜
阿侯は いったい何処にいるのか
人を惹きつける魅力があるために
かえって愁いや苦しみは多くなる
東の湖で蓮の葉の詩を採り
南の湖で蒲の根の詩を抜く
それをまだ 少女に渡さないでいるのは
しばしの間 愁い心を楽しみたいからだ

 李賀は杭州から銭塘江を南へ渡って、東に越州浙江省紹興市を旅したと思います。詩題の「緑水詞」りょくすいしは南朝斉の王融に「緑水曲」の詩があり、その詩は江南の情景を述べて婦人への思いを寄せるものです。
 詩題の由来を前提として、詩を読んでいくわけですが、この詩は李賀の詩の中で特に難解とされており、いくつもの解釈があります。まず「阿侯」は李賀の他の作品にも出てきますが、何者であるか不明です。妓女もしくは少女の名前であるようですが、李賀との関係ははっきりしません。
 銭塘で知り合った女性かもしれませんが、一般的に江南の女性を「阿侯」と言ったという説もあります。「阿侯 何処にか在る」と言っていますので、阿侯はこの場にいなくて尋ね求めている感じです。つぎの二句の主語が阿侯なのか、李賀の感想を述べているのか分かりにくいのですが、阿侯はこの場にいないのですから李賀自身の想いを述べていると解しました。
 後半の四句も難解ですが、越州は湖が多いので「東湖」や「南湖」は特定の湖をさすと考えなくてもいいでしょう。問題は「蓮葉」と「蒲根」で、蓮は恋を意味し、蒲は愁苦を意味するなど解釈は多様です。「小姑」は普通、夫の妹をいう語ですが、年ごろの娘をさす場合もあります。
 とすれば「蓮葉」や「蒲根」は詩篇の比喩であって、これらの詩を江南の美少女に渡さないでいるのは、ひとりで江南の愁いを楽しんでいたいからなのだ、と詠っているというように解釈してみました。


 画甬東城      画甬東城 李賀

河転曙蕭蕭    河転じて 曙あけぼの蕭蕭しょうしょうたり
鴉飛睥睨高    鴉飛んで 睥睨へいげい高し
帆長摽越甸    帆長くして越甸えつでんに摽あが
壁冷挂呉刀    壁かべ冷やかにして呉刀ごとうを挂
淡菜生寒日    淡菜たんさい 寒日かんじつに生じ
鮞魚噀白涛    鮞魚じぎょ 白涛はくとうを噀
水花霑抹額    水花すいか 抹額まつがくを霑うるおし
旗鼓夜迎潮    旗鼓きこ 夜 潮うしおを迎う
天の川は傾いて 静かな夜明け
鴉が飛び 女墻は高く聳えている
長い帆が 越の岸辺にあがり
壁は冷やか 呉の刀剣が掛けてある
寒い冬の日 蛤は生まれ
鮞魚は 白波を吹いてゆく
船頭の鉢巻きが 水飛沫で濡れているのは
旗鼓を鳴らして 夜の潮に立ち向かったからだ

 江南の秋景色のなか、李賀は越州からさらに東して東海の岸辺まで行ったといいます。狭い海峡を隔てて舟山島が横たわっていますが、李賀は島の西岸にある甬東城ようとうじょうを描いた絵を詩にしています。
 絵を詩にしたとすれば、必ずしも海を渡って甬東浙江省定海県まで行く必要はなく、越州の知識人の家に招かれ、その家の壁に飾ってあった甬東城の絵を題材に詩を書いたと考えてもいいでしょう。
 詩は全体が描かれた絵の描写と考えていいと思います。
 夜明けの津湊の風景で、すぐそばに甬東城の高い城壁が聳えています。
 城壁の女墻ひめがきから鴉が飛び立ち、湊には帆船がもやっています。
 第四句の「壁」は城壁と考えるべきで、城門の上のあたりに飾りか、まじないとして呉刀が取り付けてあるのでしょう。後半の四句は、漁港も兼ねている津湊のようすで、「淡菜」は蛤の類をいいます。
 「鮞魚」は魚の名ですが、南海の美味という以外には不明です。
 詩中に「白涛を噀く」とありますので、潮を吹く鯨の類、もしくは海豚いるかかもしれません。絵には漁師の姿も描かれていたらしく、「抹額」紮頭巾ともいい、はちまきのようなものが水しぶきで濡れていると観察はこまやかです。


     宮娃歌         宮娃の歌 李賀

  蝋光高懸照沙空  蝋光ろうこう高く懸かかり 沙を照らして空し
  花房夜搗紅守宮  花房かぼう 夜搗く 紅守宮こうしゅきゅう
  象口吹香榻橙暖  象口ぞうこう 香を吹いて 榻橙とうとう暖かに
  七星挂城聞漏板  七星しちせい 城に挂かかって 漏板ろうはんを聞く
  寒入罘葸殿影昏  寒は罘葸ふしに入って 殿影でんえいくら
  彩鸞簾額著霜痕  彩鸞さいらんの簾額れんがく 霜痕そうこんを著
  啼蛄弔月鉤闌下  啼蛄ていこ 月を弔う 鉤闌こうらんの下もと
  屈膝銅鋪鎖阿甄  屈膝くつしつ 銅鋪どうほ 阿甄あけんを鎖とざ
  夢入家門上沙渚  夢に家門かもんに入りて沙渚さしょに上る
  天河落処長洲路  天河てんか落つる処 長洲ちょうしゅうの路
  願君光明如太陽  願わくは 君の光明 太陽の如く
  放妾騎魚撇波去  妾しょうを放ち魚に騎り 波を撇って去らしめよ
蝋燭は高く掲げられ 薄絹の帳を照らして虚しい
美しい女人の部屋で 夜に搗いているのは紅い守宮だ
象形の香炉の口から 香は流れ毛氈は暖かく
城壁に懸る北斗七星 銅板が鳴って漏刻を知る
夜更けの寒さは 網戸から忍び入り宮殿の影は暗く
鸞鳥模様の簾の 上部に霜の痕がついている
鉤闌のしたでは 螻蛄おけらが月の光を弔って鳴き
銅飾の開き扉が 阿甄の方を閉じ込めている
わが家の門に入る夢を見て 砂の渚を歩いてゆき
天の川の落ちる所 長洲県 故郷への路よ
君王の恩寵が 太陽のように降りそそぎ
私を解き放ち 魚に乗って波の彼方に行かせてほしい

 旅をするうちに冬になり、李賀は東海の海辺から引きかえすと、冬の終わりには蘇州江蘇省蘇州市の街に滞在していました。
 詩題の「宮娃きゅうあの歌」は、昔、呉の地方では美女のことを「娃」と言っていましたので、宮中の呉美人の歌という意味になります。
 はじめの八句は冬の宮殿の夜の情景です。
 八句目に「屈膝 銅鋪 阿甄を鎖す」とありますので、「阿甄」を幽閉している宮殿の様子を想像して描いていることになります。
 阿甄は三国魏の文帝曹丕そうひの皇后甄后のことです。
 甄后は文帝の寵を失って幽閉されますが、呉とは関係ありません。
 幽閉された高貴な美女の比喩として用いたものでしょう。
 「花房」は美しく飾られた女人の部屋で、その房で夜中に搗いているのは「紅守宮」です。紅守宮は守宮やもりに丹砂を食べさせて大きくしたもので、それを生きたまま杵で搗いて、どろどろにしたものを女人の肢体に塗りつけておくと一生消えません。ただし、房事を行うと消えると信じられていましたので、女性の貞操を監視する仙薬として用いられていました。
 宮殿はのっけから異様な情景として描かれています。
 「鉤闌」は鉤型に曲がった欄干で、その下で螻蛄おけらが鳴いています。
 なんとも物淋しい風景ですが、「屈膝 銅鋪」というのは蝶つがいと銅飾りのある扉のことで、阿甄が厳重に閉じ込められていることを示しています。
 李賀はなぜ幽閉者の夜を長々と詩に書いたのでしょうか。
 神奇瑰麗を好む李賀の想像力が生み出したものでしょうが、自分が知識人として思うような官途に就けず、閉じ込められた状態にあることを比喩したものとも考えられます。結びの四句では昌谷の家に帰った夢をみて、長洲県の路が故郷につながっていることを思います。「長洲」は春秋呉の時代に長洲苑という庭苑が作られ、のちに蘇州の東半分の県名になりました。
 最後の二句では阿甄の幽閉が解かれ、自由の身になって仙人と化し、魚に乗って大海に去ってゆく願いを述べています。
 それは李賀自身の希望でもあったのでしょう。
 李賀は江南へ旅をしましたが、そこから得たものは詩的幻想の深まりであり、行き場のない人生への閉塞感であったようです。


  大堤曲         大堤の曲 李賀

妾家住横塘       妾しょうが家は横塘おうとうに住じゅう
紅紗満桂香      紅紗こうさ 桂香けいこう満つ
青雲教綰頭上髻   青雲 頭上ずじょうの髻けいを綰つがねしめ
明月与作耳辺璫   明月 与ために耳辺じへんの璫とうを作
蓮風起          蓮風れんぷう起こり
江畔春          江畔こうはんの春
大堤上          大堤だいていの上ほとり
留北人          北人ほくじんを留とど
わたしの家は横塘よ
紅い絹の窓かけ 木犀の香が満ちている
空の雲で 頭上に髷を束ねさせ
輝く月を 耳飾りにしています
蓮池に風が吹き
川辺の春は美しい
大堤のほとりの宿に
北の客を引きとめる

 李賀は蘇州で冬を越し、翌元和十一年八一六の春になると、再び金陵にもどってきました。李賀はすでに二十七歳です。
 金陵は唐代には長江水運の渡津として栄えており、県城の南を流れる秦淮河しんわいがの河口は、津湊として多くの船を集めていました。
 周辺には盛り場が軒をつらね、なかでも横塘は妓楼のひしめく歓楽の巷として有名でした。詩人が遊女になりかわって作る遊興の詩は盛唐の時代から盛んに作られており、崔顥さいこうの「長干行」ちょうかんこうなどは有名です。
 多くは五言四句の短いものですが、対話形式の連作もあります。ところが李賀は、ここでも特異性を発揮して十四句の長い詩を書いています。
 詩題の「大堤」は襄陽の南湖北省宜城県にあった色街と言われていますが、名前を借りてぼかしたのでしょう。「横塘」は金陵の渡津にあった盛り場の代名詞のようなものですから、金陵で作ったものです。
 この詩では、遊女が「青雲」や「明月」を髷や耳飾りにしている言っており、発想が奇抜で大袈裟なところが、ありきたりの遊興詩と違っています。

郎食鯉魚尾    郎ろうは鯉魚りぎょの尾を食くら
妾食猩猩脣    妾しょうは猩猩しょうじょうの脣くちびるを食う
莫指襄陽道    襄陽じょうようの道を指すこと莫かれ
緑浦帰帆少    緑浦りょくほ 帰帆きはんまれなり
今日菖蒲花    今日こんにちの菖蒲しょうぶの花も
明朝楓樹老    明朝みょうちょうは楓樹ふうじゅと老いん
お客は鯉の尾を食べ
わたしは猩々の唇を食べている
襄陽への道を指でさすのは嫌いだわ
緑豊かなこの浦に もどる船は少ないの
今日は咲いている菖蒲の花も
明日は楓樹と老いてゆく

 後半でも「鯉魚の尾」や「猩猩の脣」を食べていると言っており、何かの比喩だろうと思いますが、奇怪な表現です。李賀はこのころ、襄陽湖北省襄樊市を通って武関陝西省丹鳳県の東から都へ入る帰路を考えていたようです。
 だから遊女は「襄陽の道を指すこと莫かれ」と言って引きとめています。
 結びは、人はいつまでも若くはないので、若いうちに楽しみましょうと常套の殺し文句で括っており、「菖蒲の花」は少年の喩え、秋の「楓樹」日本の「かえで」とは違うものですは老いの喩えです。


     石城暁         石城の暁 李賀

   月落大堤上      月は落つ 大堤だいていの上
   女垣栖烏起      女垣じょえんに 栖烏せいう
   細露湿団紅      細露さいろ 団紅だんこうを湿うるおし
   寒香解夜酔      寒香かんこう 夜酔やすいを解く
   女牛渡天河      女牛じょぎゅう 天河てんかを渡り
   柳煙満城曲      柳煙りゅうえん 城曲じょうきょくに満つ
   上客留断纓      上客じょうかく 断纓だんえいを留とど
   残蛾闘双緑      残蛾ざんが 双緑そうりょくを闘わす
   春帳依微蝉翼羅  春帳しゅんちょう 依微いびたり 蝉翼せんよくの羅
   横茵突金隠体花  横茵おういん 突金とつきん 隠体いんたいの花
   帳前軽絮鵞毛起  帳前ちょうぜんの軽絮けいじょ 鵞毛がもう起こる
   欲説春心無所似  春心しゅんしんを説かんと欲すれども似る所無し
月が大堤の上に落ち
ねぐらの烏が 女墻ひめがきから飛び立つ
こまかい露が こんもり咲いた花くれないを濡らし
冷えた香りが 昨夜の酔いを醒ましてくれる
牽牛と織女は 天の川を渡って別れ
街の隅まで 柳の靄が満ちている
千切れた纓は 宴の跡をとどめ
昨夜の蛾眉は いまは乱れて歪んでいる
春の帳は揺れ 蝉の翅のように薄くてかすか
敷かれた寝床 金糸の刺繍 花の模様はおぼろ
とばりの前を 柳絮が鵞毛のように軽く飛び
恋心を訴えようと思うが 喩えるすべがない

 詩題の「石城」せきじょうは安陸湖北省安陸県の西北にあったと言いますが、長江から漢水を遡る水路からはずれています。
 金陵には昔、石頭城せきとうじょうが築かれ、それが金陵のはじまりと言えますので、金陵を「石城」と言ったと考えられます。
 多分、場所をぼかしているのでしょう。
 李賀は金陵の紅灯の巷で、いくらか羽目を外したこともあったようです。
 「上客 断纓を留め」には楚の荘王の故事があって、宴会の席で上客が妓女の袖を引き、妓女がたわむれに上客の冠の紐を千切って捨てました。
 そうした無礼講であったことが示されています。「残蛾」は前の晩に描いた眉のことで、ふたつの美しい眉は一夜明ければ醜く歪んでいるのです。
 「横茵 突金 隠体の花」はいずれも寝床の描写であり、一夜のありさまを示しています。「春心」は恋心のことであり、それを訴えようと思っても、目の前に飛んでいるのが鵞鳥の毛のような柳絮りゅうじょでは、取りとめがなくて喩えようにも喩えようがないというのでしょう。この詩も旅の一夜のたわむれの詩であるかも知れませんが、李賀らしい凝った表現が真実らしさを醸し出しており、きまじめな李賀にこの詩があるのは救いです。


     江楼曲         江楼の曲 李賀

   楼前流水江陵道   楼前ろうぜんの流水 江陵こうりょうの道
   鯉魚風起芙蓉老   鯉魚りぎょの風起こって 芙蓉ふよう老ゆ
   暁釵催鬢語南風   暁釵ぎょうさびんを催うながして 南風に語る
   抽帆帰来一日功   帆を抽いて帰り来きたるは一日の功
   鼉吟浦口飛梅雨   鼉吟じて 浦口ほこうに梅雨ばいう飛び
   竿頭酒旗換青苧   竿頭かんとうの酒旗しゅき 青苧せいちょに換
   蕭騒浪白雲差池   蕭騒しょうそうとして浪白く 雲くも差池しちたり
   黄粉油衫寄郎主   黄粉こうふんの油衫ゆさん 郎主ろうしゅに寄す
   新槽酒声苦無力   新槽しんそうの酒声しゅせい 力無きを苦しむ
   南湖一頃菱花白   南湖 一頃いっけい 菱花りょうか白し
   眼前便有千里思   眼前 便すなわち千里の思い有り
   小玉開屏見山色   小玉 屏へいを開けば 山色さんしょくを見る
高楼の前の流れは 江陵への道
五月の風が吹くと 蓮の葉はぐったりする
鬢の崩れを夜明けに直し 南の風に語る
「帆を上げて帰ってくれば 一日でもどれる」と
鰐が唸ると 入江のほとりに梅雨が飛び
酒屋の旗は 青い麻布に取り替えられる
浪は白く泡立ち 雲は高低さまざまに流れ
黄色い雨合羽を 主人のもとに送らせる
新酒の熟する音が 弱々しいのもやるせなく
南湖の水は一面に 鏡のように白く輝く
目の前に拡がる景色に 千里の思いあり
侍女が屏風をひらくと 山々に色をみる

 この詩は閨怨詩に類するもので、商人の妻になり代わって作っています。
 「楼前の流水 江陵の道」と言っていますので、夫は商用で江陵湖北省江陵県に行っているのでしょう。妻は夫の帰りを待ちわびており、「帆を抽いて帰り来るは一日の功」と詠います。「黄粉の油衫」は黄色い雨合羽で、油を塗って雨を弾くようになっています。
 梅雨になって川も波立ってきたので、妻は夫に雨具を送ったのです。
 中国には南湖と称する池は至る所にありますので、場所を特定する要素にはなりませんが、「菱花」は菱の花ではなく、銅鏡の紋様に菱の花を配することが多かったので、鏡の代わりに「菱花」と言ったのです。
 酒樽の新酒も熟しはじめ、梅雨の晴れ間に南湖の水も白く輝いているのに、主人はまだもどって来ないと嘆くのです。
 結びは「眼前 便ち千里の思い有り 小玉 屏を開けば 山色を見る」と詠って、留守の妻が遠くの山の色を見て主人の身を思いやる場面です。
 「小玉」しょうぎょくは侍女のことですのですので、商人の家は貧家ではないことが分かります。


  苦昼短         昼の短きを苦しむ 李賀

飛光飛光       飛光ひこうよ 飛光よ
勧爾一杯酒      爾なんじに一杯の酒を勧すす
吾不識青天高    吾われ識らず 青天せいてんの高く
黄地厚         黄地こうちの厚きを
唯見月寒日暖    唯だ見る 月は寒く日は暖かに
来煎人寿       来たって 人の寿じゅを煎るを
食熊則肥       熊を食くらえば 則ち肥え
食蛙則痩       蛙を食くらえば 則ち痩す
過ぎゆく歳月よ 月日の光よ
汝に一杯の酒を勧める
晴天の高さも 黄土の厚さも
私は知らない
見えるのは 月は寒くて日は暖かく
それがやって来て 人の命を縮めることだ
熊を食べれば ふとり
蛙をたべれば やせる

 春に金陵を再訪し、梅雨の季節になりましたので、李賀は故郷に帰ろうと思います。しかし、呉元済ごげんさいの淮西の乱はまだつづいており、直接昌谷に向かうのは危険でした。
 そこで李賀は、漢水を遡って武関から都に出ることにしました。
 長安に着いたのは秋に近いころか、秋のはじめだったと思われます。
 韓愈はそのころ太子右庶子正四品上になって都にいましたが、閑職であり、政事の中枢にいません。
 李賀が韓愈に頼って官職に就こうとした形跡はないようです。旅の疲れもあって、李賀は体調がすぐれず、帰郷途中の一時的な長安滞在でした。
 これまで李賀の生涯をたどりながら詩を見てきましたが、李賀の生活信条は当時の知識人と特に変わったことはありません。
 経世済民の志を抱いて官に就こうとし、藩鎮の世襲化とそれにともなう争乱に心を痛めていました。李賀が鬼才と言われるときにいつも引用される「将進酒」や「秋来る」のような見事な詩が、幾つもあるわけではないのです。
 とすれば、これらの名作が作られたのは、最後に長安に滞在したこのとき、元和十一年816の秋しか考えられません。
 そうした見方で李賀の詩を見てゆくと、「将進酒」や「秋来る」と類似性の多い詩を見出すことができます。
 「昼の短きを苦しむ」の詩は、人生が早く過ぎていくことを秋の日が短いことに事寄せて詠うものですが、一句の語数が極めて不揃いになっていることに特色があり、用語にも「将進酒」や「秋来る」と似たものが散見できます。
 ただし内容は病弱な貧者の嘆きが中心で、月日の寒暑が重なって人の寿命は縮まっていくが、食べ物でいえば熊掌や白熊は珍味とされ、高価であるので富貴の者がたべる。
 蛙は貧窮な者の食糧で、富者は肥え、貧者は痩せてゆくと詠うのです。

神君何在       神君しんくん   何いずくにか在る
太一安有       太一たいいついずくにか有る
天東有若木      天の東に若木じゃくぼく有り
下置銜燭龍      下に燭しょくを銜ふくむ龍を置く
吾将斬龍足      吾われまさに 龍の足を斬り
嚼龍肉         龍の肉を嚼
使之朝不得廻    之をして 朝あしたには廻めぐるを得ず
夜不得伏       夜には伏するを得ざら使めんとす
生命の神 神君はどこにいるのか
太一の神はいずこにおわすのか
天の東に若木があって
下に燭をくわえた龍がいる
私は龍の足を斬り
龍の肉をかんで
そいつが 朝になっても駆けめぐれず
夜になっても休めないようにしてやろう

 中八句の「神君」も「太一」も漢の武帝が祀った神です。
 その不在を嘆いているのは、人生の不条理を訴えるものでしょう。「若木」は神話上の木で、西北の砂漠の中の山に生えているとされていました。
 ここでは東にあるとし、その木の下に楚辞「天問」に出てくる「燭龍」がいて、日輪を運んでいます。
 李賀は燭龍を退治して、時の動きを止めてやろうと言っています。

自然老者不死     自然 老者ろうしゃは死せず
少者不哭        少者しょうしゃは哭こくせず
何為腹黄金       何為なんすれぞ 黄金を腹ふく
呑白玉          白玉はくぎょくを呑まん
誰是任公子       誰か是れ任公子じんこうし
雲中騎碧驢       雲中うんちゅう 碧驢へきろに騎らん
劉徹茂陵多滞骨   劉徹りゅうてつ 茂陵もりょう 滞骨たいこつ多く
嬴政梓棺費鮑魚   嬴政えいせい 梓棺しかん 鮑魚ほうぎょを費す
そうすれば 自然に年寄りは死なず
若者は老いを嘆かず
不老長生のために黄金を食べ
白玉を呑んだりしなくてもいいだろう
任公子は碧い驢馬に乗って
雲の中を飛んだというが いったい何者か
漢の劉徹も 茂陵で多数の骨となり
秦の嬴政も 柩に乾し魚を詰められた

 時の動きを止めることができれば、老人は死なず、若者は老いを嘆かなくなるだろう。人は不老長生を望んで黄金を食べたり、白玉を呑んだりするが、利き目には疑問符を投じています。「任公子」は『荘子』外物篇に出てくる仙人ですが、李賀はその存在を疑っています。結びの「劉徹」は漢の武帝、「嬴政」は秦の始皇帝で、ともに不老長生を願ったことで有名です。
 しかし二人とも死んで、陵墓で骨になっていると詠います。最高の権力を手にした帝王でさえも、不老長生を全うできなかったということでしょう。
 李賀は自分の生命が長くないことを、なんとなく感じていたのかもしれません。

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