秋下荊門        秋 荊門を下る    李 白
 霜落荊門江樹空   霜は荊門けいもんに落ちて江樹こうじゅむな
 布帆無恙挂秋風   布帆ふはんつつが無く 秋風に挂
 此行不為鱸魚鱠   此の行こう 鱸魚ろぎょの鱠なますの為ならず
 自愛名山入剡中   自ら名山を愛して剡中せんちゅうに入る
霜は荊門に降り 岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し 剡渓の奥へ分け入るのだ

 李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができました。あたりははや晩秋のけはいです。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にあります。
 対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といったおもむきでした。蜀の側からすれば東方、湖北・湖南地方への出口ということになります。李白はここで、ひとつの決意を口にしています。
 今度の旅は「鱸魚(ろぎょ)(なます)」を食べに行くような物見遊山の旅ではない。名高い寺を訪ねて勉強をしながら、東の果て「剡中」(浙江省嵊県)まで分け入るのだと意気込んでいます。剡中は剡渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名でした。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいというのが李白の目的です。


渡荊門送別    荊門を渡って送別す 李 白
渡遠荊門外    渡ること遠し荊門けいもんの外
来従楚国遊    来りて従う 楚国そこくの遊ゆう
山随平野尽    山は平野に随いて尽き
江入大荒流    江かわは大荒たいこうに入りて流る
月下飛天鏡    月は下りて 天鏡てんきょう飛び
雲生結海楼    雲は生じて 海楼かいろうを結ぶ
仍憐故郷水    仍お憐れむ 故郷の水
万里送行舟    万里 行舟こうしゅうを送るを
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ 山は消え去り
広大な天地の間へと 江は流れてゆく
月が傾けば 天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと 蜃気楼が出現したようだ
だがしかし しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が 万里のかなたへ送るのだ

 湖北地方に出た李白たちが、はじめて足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)でした。江陵は荊州けいしゅうの州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分されている大城でした。
 大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であったのです。
 李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流しながら翌年の春までを過ごします。李白は江陵で当時の道教教団の最高指導者であった司馬承禎しばしょうていと会っています。
 司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法籙ほうろく(道教の免許)を授けるほどに信頼されていました。
 司馬承禎は南岳衡山こうざんでの祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのです。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うたと思いますが、司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めたということ以外に、詳しいことは分かっていません。
 開元十三年(七二五)の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩です。題の「送別」は誤記と解されています。李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせていますが、同時に「仍お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませています。

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