江行寄遠     江行して遠くに寄す 李 白
刳木出呉楚    刳木こぼくして呉楚ごそに出
危槎百余尺    危槎きさ 百余尺
疾風吹片帆    疾風 片帆へんぱんを吹き
日暮千里隔    日暮にちぼ 千里を隔へだ
別時酒猶在    別時べつじの酒 猶お在り
已為異郷客    已に異郷の客と為
思君不可得    君を思えども得可からず
愁見江水碧    愁うれえて見る 江水の碧へき
小舟を準備し 呉楚の地へ旅立つ
おおきいが 危なつかしいぼろ舟だ
帆は風をはらんで
一日に千里を走る
別れの酒が まだ醒めていないのに
はやくも 異郷の旅人となる
君を思うが 会うことはできず
愁い心で江水の 碧みどりをじっと見つめている

 別れの酒がまだ醒めていないというのですから、この詩は嘉州を過ぎて戎州(四川省宜賓市)へ向かうあたりでの感懐でしょう。
 題に「寄遠」(遠くに寄す)とありますので、故郷に書き送ったものと思われます。
 当時の旅はひとつの事業と言っていいくらい大変なものでした。
 官吏の場合は旅の一日行程に応じて駅亭が設けられ、これを利用して宿泊することができました。
 しかし、一般人には駅亭の利用は認められていません。
 しかも中国では「抱被」ほうひといって、旅をするにも他人の家に行くのにも、泊まる場合は寝具を持参するのが習慣でした。
 そのほかに着替えや炊飯用具まで持っていくのですから、旅の荷物はかさばることになります。
 李白はさらに愛用の琴と剣を箱に入れて持ち歩いていたと言っていますので、舟か馬車でなければ長途の旅は不可能であったでしょう。
 詩に「刳木(こぼく)」とありますが、本来の意味は刳り舟をつくることです。
 唐代では船旅の準備をする意味に転用されていますので、李白は父親から多額の旅の資金を出してもらって、自前の小舟を用意したものとみられます。「危槎 百余尺」と言っていますので三〇㍍余の舟ということになりますが、詩における数字は語呂合わせのようなもので、あてになりません。「槎」は筏のことですが、危なつかしい小舟を用意したものと思われます。
 帆は順風を受けて快調にすすみますが、李白は「已に異郷の客と為る」と旅立つ者のはずんだ気分からは遠いようです。


早発白帝城       早つとに白帝城を発す  李 白
 朝辞白帝彩雲間    朝あしたに辞す 白帝 彩雲さいうんの間
 千里江陵一日還    千里の江陵こうりょう 一日にして還かえ
 両岸猿声啼不尽    両岸の猿声えんせいいて尽きざるに
 軽舟已過万重山    軽舟 已すでに過ぐ 万重ばんちょうの山
朝やけの雲間を抜けて 白帝城を辞し
遥かな江陵へ 一日で下る
両岸の猿声は まだ耳にこだまして
そのまに舟は 万重の山峡やまを駆けぬけた

 李白はひとりで蜀を出たのではなく、呉指南ごしなんという友人といっしょでした。やがて二人は渝州ゆしゅうに着き、ここにしばらく滞在したあと、大三峡へ向かって船出します。「早発白帝城」は李白の傑作のひとつに数えられ、李白が五十九歳で夜郎に流謫されるとき、途中で恩赦を受けて引き返すときの喜びの作とするのが通説です。
 しかし、李白の作品を詳細にみると、恩赦の通知を受けたのは巫山ふさんに登ったあと岸の舟にもどってからで、そこから引き返しています。
 巫山は白帝城のある夔州きしゅう(四川省奉節県)よりもすこし下流になり、しかも巫山から帰るときの詩はあまりいそいそしたものではありません。石川忠久氏は「千里の江陵 一日にして還る」の「還」は韻字であり、「行く」とすべきところを「還る」と書いている用例はほかにもあり、帰還の意味にこだわる必要はないと言っています。
 それよりも注目すべきものは「両岸の猿声 啼いて尽きざるに」であって、江南地方に棲む猿は手長猿の一種であり、その鳴き声は独特の哀調を帯びていると言っています。手長猿の鳴き声は、非常に複雑な鳴き方で、哀しげな感じを受けます。
 したがって石川氏は「両岸の猿声」は帰還の喜びにつながるものではなく、はじめて三峡の猿の啼き声を耳にした李白が、故郷を離れてゆく身の悲痛な感情に結びつけて詠っていると考えるのがよいと主張されています。

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