蜀道難            蜀道難     李 白
 噫吁嚱危乎高哉     噫吁嚱ああ 危い乎かな 高い哉かな
 蜀道之難難於上青天 蜀道(しょくどう)の難きこと青天に上るより難し
 蚕叢及魚鳧        蚕叢さんそうと魚鳧ぎょふ
 開国何茫然        開国 何ぞ茫然ぼうぜんたる
 爾来四万八千歳     爾来じらい 四万八千歳しまんはっせいいざい
 不与秦塞通人煙     秦塞しんさいと人煙じんえんを通つうぜず
 西当太白有鳥道     西のかた太白(たいはく)に当たりて鳥道有り
 何以横絶峨眉巓     何を以てか峨眉がびの巓いただきを横絶せん
 地崩山摧壮士死     地は崩れ 山は摧くだけて 壮士死し
 然後天梯石桟方鈎連 然る後 天梯石桟 (はじ)めて鈎連(こうれん)
ああ 危ういかな 高いかな
蜀への道は 青天に上るよりも困難だ
蚕叢と魚鳧の建国譚けんこくばなし
はるか昔のことで はっきりしない
それから四万八千年
境を接する関中とは ゆきかうことも稀である
西のかた太白山には 鳥の通う道があるが
どうして 峨眉山の山頂を越えられよう
その後 地は崩れ 山は砕ける遭難があり
天梯石桟の苦労の果てに 桟道を架けたのだ

 雑言古詩「蜀道難」しょくどうなんを取り上げます。李白の詩は制作年の特定できないものが多いのですが、この詩もそのひとつです。
 ただ、この詩には誇張された力強い表現、豊かな想像力、奔放で雄渾な言葉づかいなど、李白ならではの非凡な特色が備わっていますので、李白が気力、体力ともに充実し、意欲に満ちていた四十歳前後の作品ではないかと思います。蜀道というのは唐の都長安と蜀(四川省中央部)を結ぶ山道で、秦嶺山脈の西端を南北に通じ、険阻なことで有名でした。三句目の「蚕叢さんそうと魚鳧ぎょふと」は古代の蜀王の名で伝説に属していますが、そうした古い時代から蜀道の険阻は秦(関中地方)と蜀との交通を妨げていたというのです。
 九句目の「地は崩れ 山は摧けて 壮士死し」は戦国秦の時代の挿話で、秦の恵王が蜀に五人の美女を贈ることになり、それを迎えに行った壮士と秦の美女が剣門関の南まで来たとき、山崩れに遭って全員が圧死してしまいました。この遭難事件は、つぎの「天梯石桟」てんていせきさんを作るにいたった理由を述べるために挿入されています。

  上有六龍回日之高標  上には 六龍回日(りくりゅうかいじつ)の高標有り
  下有衝波逆折之回川  下には 衝波逆折(しょうはげきせつ)の回川有り
  黄鶴之飛尚不得     黄鶴こうかくの飛ぶこと 尚お得あたわず
  猨猱欲度愁攀縁     猨猱(えんどう)度らんと欲して 攀縁(はんえん)を愁う
  青泥何盤盤         青泥せいでい 何ぞ盤盤ばんばんたる
  百歩九折縈巌巒     百歩九折 巌巒がんらんを縈めぐ
  捫参歴井仰脅息     参を(さぐ)り井を()て 仰いで脅息(きょうそく)
  以手撫膺坐長歎     手を以て(むね)()し 坐して長嘆(ちょうたん)
  問君西遊何時還   君に問う 西遊して(いづ)れの時にか(かえ)ると
上には六龍のひく日輪も 引き返すほどの高い峰
下には打ちかえす波涛 逆巻く渦の激流がある
千里を飛ぶ黄鶴も さすがに飛び越えられず
猿は渡ろうとして 登りきれずに啼き叫ぶ
青泥山の路は 曲がりくねってどこまでもつづき
百歩の間に 九度も折れ曲がって岩山をめぐる
参星と井星を間近に見て進み 天を仰いで息をつめ
胸をさすりながら坐り込んで 長いためいきをつく
君に尋ねよう 西のかた蜀に旅していつになったら帰るのか

 つづいて八句にわたって蜀道の険しいようすが述べられます。
 「参しんを捫さぐり井せいを歴て」というのは、いずれも星の名もしくは星座の名で、山路が高いので手や足が星に届きそうだというのです。
 実は李白には蜀道を通ったという記録がありません。したがって、これらはすべて伝聞や想像にもとづく詩的創作ということになります。
 ただ、李白の一家は李白が五歳のころから蜀の綿州昌隆県清廉郷(四川省江油市の南)に住みつき、その地で李白は青年期まで育ちます。江油市というのは嘉陵江の支流涪江ふうこうの中流上部に属し、四川盆地の北部、山よりの地にあたります。したがって、李白は幼いころから蜀道の険阻については耳にしていたはずです。
 最後の句は「君に問う 西遊して何れの時にか還ると」となっていますので、李白は蜀へ向かって旅立とうとしている人に、いつになったらもどってくるのかと問いかけているようです。

畏途巉巌不可攀     畏途いとの巉巌ざんがんず可からず
但見悲鳥号古木     但だ見る 悲鳥ひちょうの古木に号さけ
雄飛雌従遶林間     雄おすは飛び 雌は従って林間を遶めぐ
又聞子規啼夜月愁空山又聞く子規(しき)の夜月に()いて空山に愁う
蜀道之難難於上青天  蜀道の難きは 青天(せいてん)に上るよりも難し
使人聴此凋朱顔     人をして (これ)を聴いて朱顔を(しぼ)ましむ
連峰去天不盈尺     連峰 天を去ること尺に盈たず
枯松倒挂倚絶壁     枯松 倒しまに挂かかって絶壁に倚
飛湍暴流争喧豗     飛湍ひたん暴流 喧豗けんかいを争い
砅崖転石万壑雷     崖を砅ち 石を転てんじて万壑雷とどろ
其嶮也若此         其の嶮けんなるや 此かくの若ごと
嗟爾遠道之人胡為乎来哉 (ああ) 爾 遠道の人 胡為(なんす)れぞ来れるや

 険しい路に切り立つ岩は 攀じ登ることもできず
 見えるのは 鳥が悲しげに古木で叫び
 雄に従う雌鳥が 林のなかを飛びまわるだけ
 聞こえるのは月に向かってほととぎす 淋しい山に啼く声ばかり
 蜀道の難きこと 青天に上るよりも難し
 人はこれを聞けば 紅顔も萎え凋むであろう
 連なる峰は 一尺たらずで天に届き
 枯れた松は さかさに絶壁に生えている
 早瀬と瀧の水音は ごうごうと響き合い
 崖に当たり 岩を転がして 万雷のように谷に轟く
 かくも険しい蜀道へ
 遥々ときた旅の人よ なにか訳でもあってきたのか

 「西遊して何れの時にか還る」と問いかけたあと、さらに十句にわたって蜀道の険しさが述べられます。
 そして「嗟ああなんじ 遠道えんどうの人 胡為なんすれぞ来きたれるや」と、なにか理由でもあって来たのかと問いかけます。
 「遠道の人」とは誰のことでしょうか。遠くから旅をしてきた人という意味ですので、李白自身と考えることも可能です。
 詩の中でのこの執拗な問いかけは、李白が人生行路の困難を蜀道の険阻に例えて詠っているとも解釈できるでしょう。
 ところが、李白には別に「剣閣賦」という作品があって、李白が長安に出てきて翰林供奉かんりんぐぶに任ぜられたころに作られたものです。
 その詩には「友人王炎の蜀に入るを送る」という題注があって、このことから、「蜀道難」の詩は王炎の蜀ゆきに触発されて書いたという解釈も成り立ちます。しかし、「蜀道難」は友人を送る詩にしては壮大に過ぎる作品のように思われます。何か李白の背後に欝屈したものがあって、それを詩に託して吐き出しているのではないか…。

 剣閣崢嶸而崔嵬    剣閣 崢嶸そうこうとして崔嵬さいかいたり
 一夫当関         一夫 関かんに当たれば
 万夫莫開         万夫も開く莫
 所守或匪親       守る所 或いは親しんに匪あらずんば
 化為狼与豺       化して為らん 狼ろうと豺さいとに
 朝避猛虎         朝あしたに猛虎を避け
 夕避長蛇         夕ゆうべに長蛇を避く
 磨牙吮血         牙きばを磨ぎ 血を吮
 殺人如麻         人を殺すこと麻あさの如し
 錦城雖云楽       錦城きんじょうは楽しと云うと雖いえど
 不如早還家       早く家に還かえるに如かず
 蜀道之難難於上青天蜀道の難きこと 青天に上るよりも難し
 側身西望長咨嗟    身を(そば)だてて西望し 長く咨嗟(しさ)する
剣閣の道は 峨々として高く険しく
一夫 関に当たれば
万夫も開くなし
この地を守る将軍は 信頼こそが重要だ
狼や山犬となって 反逆せぬとも限らない
朝には 猛虎におびえ
夕べには大蛇を恐がる
牙を磨ぎ 血をすすって
麻を薙ぎ倒すように人を殺す
成都は 楽しい街というが
はやく 古里に帰ったほうがよい
蜀道の難きこと 青天に上るよりも難し
身をよじり 西を望んで深くため息をつく

 最後に剣閣けんかくの要害であることと、この地の軍事的重要性が述べられますが、この詩が作られたと思われる天宝の初年(天宝元年に李白は四十二歳)は玄宗の治世の最盛期です。
 軍事的に不安があった時代ではありませんので、蜀道の険阻を別の面から述べたものでしょう。猛獣も出るような地域です。「人を殺すこと麻の如し」というのは激しい表現ですが、人生にはいのちを失うような危険もひそんでいると注意を促している言葉と思います。
 そして最後は「錦城は楽しと云うと雖も 早く家に還るに如かず」と結びます。人生は危険に満ちている。
 はやく故郷に帰った方がよいと忠告しているのです。
 結びの句が「身を側だてて西望し 長く咨嗟する」となっていますので、作者は東から西を望んで嘆息していることになります。
 蜀道は長安の西にありますので、作者は長安にいて、西を望みながらこの詩を作ったことになるようです。
 李白という詩の天才は、些細なことであっても、何かの切っ掛けが与えられると、神話や伝説をふんだんに駆使して人を驚嘆させるような詩的幻想の世界をつむぎ出し、それを見事な言語表現で、壮大な詩の世界に作り上げることのできる詩人であったようです。
 「蜀道難」は、そのことを雄弁に物語る詩と言えるでしょう。

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