酔中作        酔中の作  張 説
酔後方知楽     酔後 方に楽しみを知り
弥勝未酔時     弥々 未だ酔わざる時に勝る
動容皆是舞     容を動かせば 皆な是れ舞にして
出語総成詩     語を出だせば 総て詩と成る
酔ってはじめて 楽しい酒の味を知り
酔えば酔うほど 素面(しらふ)のときと違ってくる
体が動けば それがそのまま舞となり
言葉を吐けば すべてそっくり詩句となる

 張説(ちょうえつ)は高宗の乾封二年(六六七)に生まれ、寒門の出ででしたが、則天武后の人材登用策によって官に就きました。
 政争によって地方の刺史や都督に左遷されたこともありましたが、そのたびに中央に復帰し、玄宗の開元の治にたずさわります。
 官は中書令(正三品)に至り、左丞相をつとめました。燕国公の爵位を授けられ、開元十八年(七三〇)に六十四歳でなくなります。


照鏡見白髪    鏡に照らして白髪を見る 張九齢
宿昔青雲志     宿昔 青雲の志
蹉跎白髪年     蹉跎たり 白髪の年
誰知明鏡裏     誰か知らん 明鏡の裏うち
形影自相憐     形影 自ら相憐れまんとは
むかしは 青雲の志があったが
ああもはや 白髪の歳になった
思いもしなかったな おいお前
鏡にむかって苦笑い 語りかけるようになろうとは

 張九齢は高宗の儀鳳三年(六七八)に生まれ、張説より十一歳の年少でした。二十三歳のころ進士に及第し、玄宗の開元の治で張説の腹心として活躍しました。官は中書侍郎(正四品上)同中書門下平章事に至りましたので、宰相になったわけですが、李林甫が宰相になると、荊州(湖北省江陵)に左遷されました。五年間、荊州で詩文を友とし、開元二十八年(七四〇)に六十三歳で荊州で没しました。


  洛中訪袁拾遺不遇 洛中に袁拾遺を訪れしも遇わず 孟浩然
洛陽報才子     洛陽に才子を訪えば
江嶺作流人     江嶺に流人と作れり
聞説梅花早     聞説(きくな)らく 梅花早しと
如何此地春     此の地の春と如何いかん
洛陽の街に才子を訪ねると
江南の果てに流されていた
聞けばかの地は 梅の咲くのも早いという
都の春と比べたら さてどんなものだろうか

 孟浩然は則天武后の永昌元年(六九八)に襄陽(湖北省襄樊市)で生まれました。貢挙をめざしたが及第せず、各地を放浪して詩人と交わり、郷里に近い鹿門山に隠棲して過ごしたりしました。李白より十二歳の年長で、李白の尊敬を受け、交流があったのは有名です。
 玄宗の開元二十八年(七四〇)、五十二歳で無官のまま亡くなりました。「江嶺(こうれい)」は長江とその南の五嶺地方のことで、「如何」は袁拾遺の配流の身を思って、江南より梅の咲くのは遅くても語り合える友の居る洛陽のほうがいいだろうと問いかけています。

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